2017年12月28日

All You Need Is_

 「2017年の目標は毎日ブログを書くこと」と書いてから、今日で11か月と6日が経過しています。そして1年の残りはあと3日。結局投稿したのは(このポストを入れて)2回だけ。約束破りも甚だしいですね。

 あっという間に過ぎてしまった時間が登り坂なのか下り坂なのか、正直なところ分かりません。もうけっして若いとは言えないフェイズに自分が突入したのは確かで、けれどその割にはちゃんとした責任感が伴っているわけでもない、相変わらずなるようになるさ的な甘めの人生観と人間観のまま、その日その日をなんとか生きているという自覚はあります。一方ふと世界や社会に目をやれば、ものすごいスピードで何かが流れ去っていく残像が見える。呆然とします。光陰矢の如しというけれど、いったい飛んでいるのは時間なのか、わたしたちなのか、それとも世界なのでしょうか。流れを見ているのか、流されているのか、もう分からなくなってしまいそうです。
 でも、もう一度気を取り直し、少し視線を落として周りを見渡せば、今年がぼくにとっていい年だったのはやっぱり間違いないようです。自身の考え方を変えるような出会いも、足場がどこにあるのかを確かめることができた出来事も、自分の周りでゆっくりと状況が変容していくあの静かな高揚感も、たくさんありました。ゆっくりしたり、ぼーっとしたり、だらだらしたりする空っぽの時間がもてなかったことは残念ですが、まあそれだけ目まぐるしくも充実した日々を送らせてもらったことには、とにもかくにも感謝の念でいっぱいです。みなさんありがとうございました。

 それはそうと、一年の最後に書いてみたいのは「憎しみ」というものについてです。

 憎しみとはいったい何なのか。ここのところずっとぼくは考え続けています。ある対象に向けたネガティヴな感情。手元にある国語辞典では「疎ましく、懲らしめられてほしいと思う」、漢和辞典では「嫌悪する、恨む」とありますが、ぼくにはそれよりもさらに強い色合いがあるように思えます。対象の存在を否定し、ともすれば消してしまいたいという衝動が、憎しみには込められていないでしょうか。
 何かを「憎むこと」について、学校では習いませんよね。「憎しみは、好ましくない感情だ」ということは教わったかもしれません。あいつ嫌いだよ、とか、どうもここは居心地がよくない、なんでこうなるの(怒)とかいった感覚は日常的に味わうことが多いと思いますが、本気で憎むというところまではなかなかたどり着かない。そもそも何かを憎んだことがあるかなと振り返ってみても、すぐには思い浮かびません(ぼくが能天気なだけかもしれませんが)。幸い(?)小説や映画や漫画のおかげで、憎むということがどういうことなのか、なんとなく場面を想定することはできます。けれど、具体的な事象を数え上げてみても、憎しみそのものを照らすことができるとは限らないようにも思えるのです。相模原の事件は憎しみによるものだったのでしょうか。だとすれば彼が憎んでいたのは障碍者たちでしょうか、それとも自分自身の生きづらさでしょうか。イギリスやフランスに吹いている移民排斥の風は憎しみでしょうか。彼らは移民を憎んでいるのか、生活の悪化を恐れているのか、どちらがより適切なのでしょうか。生理的もしくは空想的な嫌悪感、自己保身の欲動、劣等感の裏返し、虚無的な暴力衝動といった感情の集合体は、憎しみと同じでしょうか。私たちが生きているその日常で、この感情がむき出しで転がっている場面に遭遇することは果たしてどのくらいあるのでしょうか。

 最近、一人の若者と出会いました。この若者はとあるスポーツをやっています。その競技において将来は間違いなく日本を代表するであろうと言われている才能溢れるアスリートです。日本での高校生活をいったん括弧に入れて、ヨーロッパに渡ろうとする彼と、渡航の1週間ほど前にゆっくり対話する機会があり、二人で「ノーマンズ・ランド」という映画を観ました。旧ユーゴスラヴィア紛争中のボスニア=ヘルツェゴビナを描いたこの作品を観ながら、時折あの場面はこういう意味があってだな…という解説をぼくが入れつつ、それについて彼が感想や意見を話していくという形で対話は進みました。

 セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの人々の関係がどのようにこじれていったのかを話していると、若者は腑に落ちたような顔で呟きました

 ―それで、試合のときはあんな空気になるのか。

 彼はこれまでにも幾度か欧州での合宿や大会に参加しています。それらの場面で、実際に二つの国のチームの試合を見るたびに、何かがおかしいと感じていたのだそうです。ぼくは内心愕然としました。紛争が終わってもう25年経とうとするいまも、若きアスリートたちの認識や感情の襞に歴史のひずみが染みついているのだと。
 もちろんこの会話だけを材料に選手たちの感情の質を断定することはできません。セルビアとボスニア=ヘルツェゴビナのスポーツメンがそれぞれ生まれてからどのような遍歴をたどってきたのか。その「空気」を体現し煽動していたのは一部の(たとえばナショナリストの家に生まれた子弟がチーム内にいた、など)だけではないのか。その場限りの苛立ちや気持ちの高ぶりといった個人的な感情を民族的な侮蔑語に振り替えただけなのかもしれない。ひとりの若い日本人による一瞬の印象だけをたよりに、民族の間に刻まれた溝の深さを測り知ることなんて到底できないでしょう。
 それでも、二つの集団が祖国や民族を背負って向かい合うとき、純粋に友好的なスポーツ競技のなかに互いを留めておくことを許さない歴史的な事実がそこに存在していること―そして、それぞれの国の若者たちはその事実を前提に話を始めなくてはならないこと― 彼は直感で、この確かさを感じ取っていたのではないかと思います。

 何かを嫌悪する気持ち、誰かを糾弾したくなる気持ち、見下すことで留飲を下げようとする欲求、それらの感情は往々にして、認知のゆがみや無知(正しく知ろうとしないことも含む)を根っこに持ちます。知らないことへ目をつぶりたいという逃避衝動や自分の望んだように世界を解釈したいという欲求は、けれど、その人の耳や目をむき出しの現実の中にさらけ出すことができれば、夜の終わりのように(壁が崩れるように)消えていくものです。それは子どもが何かを学び、新しいことを知る過程と似ているでしょう。「啓蒙」ということばを考え出した人は(ルソーだっけ?)つくづくお見事だなあと感心させられます。
 憎しみは、そのような幼稚な「蒙さ」とは異なるものです。確かに、憎しみが正常な眼差しを奪い、認識を歪め、判断を誤らせることはあるでしょう。しかし、その出発点において憎しみは「傷」から始まっています。コンプレックスの変形としての嫌悪感などよりさらに直接的な、人間の尊厳が傷つけられたときに滴る血こそが、憎しみを育む。この点において憎しみはすでにむき出しの、圧倒的な現実から始まっている、いや、始めさせられている―



 インターナショナルスクールの授業で行われたディベートで「第二次世界大戦における日本の罪」をめぐって主にアジア系のクラスメイトたちから集中砲火を浴びたことを機に、嫌韓・嫌中という感情を刷り込まれてしまったという帰国子女に会ったことがあります。ネットやヘイトデモで飛び交うような汚い言葉を彼はほとんど使いませんでしたが、かえって観念的で空想的なレイシズムとは次元を異にするような、自尊心による復讐とでも言うべき激しいものが、感情の底に沈んでいるように見えました。そこに、貧乏学生時代、家賃の支払いにも困る暮らしの中で、ユダヤ人の高利貸し達を見ながら、あの唾棄すべき思想を抱きはじめたというヒトラーのエピソードと重なる部分はあるでしょうか。中東やアフリカで、反政府組織によって監禁され調教されて殺人マシーンに仕立て上げられるあの少年兵たちの影とつながるものはあるでしょうか。優生思想(とさえも言えない拗ねた反抗心)の亡霊にとりつかれて相模原の施設を襲ったあの青年との類似点はあるでしょうか。
 ひとは現実のなかで出会った人やものを対象に感情を育みます。現実が自分に襲い掛かってきたとき、その痛みのなかで圧殺された魂の一部が変質し、憎しみとなる。出来事の重大性を<客観的に>測定しようとすることにはほとんど意味がありません。当事者が現実をどのように感じたのか、彼にとって現実はどのようなものだったのか―ほんとうの「重み」とは、彼の前に立ちはだかる現実のその<現れ>を推察することでしか知りえないものなのですから。憎しみに基づく事件が起こったとき、わたしたちはしばしば衝撃のあまり過剰なワイドショー化を求めてしまったり、脊髄反射的に抹殺することを求めたりします。けれどほんとうに注意深く見なくてはならないのは、彼がいったい何を憎んでいたのか?その憎しみはどこから来たのか?という「人間の闇」そのもの、ではないでしょうか。
 (余談ですが、これもまたある帰国子女の友人―南アフリカからの帰国子女でした―から聞いた話です。あの当時、現地の日本人の大部分はアパルトヘイトが道理に合わない制度であると認識していた、現実にある差別についてはよく観察していた、けれど彼らはけっして黒人たちの心の中までをのぞき込もうとはしなかった、だから「名誉白人」であることに耐えられたのだろう、と)

 幸か不幸か、日本の社会はこれまでずっと現実そのものがオブラートに包まれてきたように見えます―あるいは私たちの眼鏡に「世の中なんてそんなもんだよ」という諦めが染みついていたというべきかもしれません。差別は隠されており、不平等は人生に織り込み済みのものとして扱われ、現実は目の前からではなく背後や足元から人間の歩みを絡めとるもの―そんな社会で生きる私たちにとって、憎しみという感情はあまりに強すぎ、遠すぎるのでしょうか。敵意が、嫌悪が、嘲笑が、嫉妬がこれほどまでに渦巻いている日々においても「おれはあいつが憎い」という叫びを聞く機会は多くはありませんでした(だからこそ凶悪犯罪やヘイトクライムが起きたときには、いつも大きな衝撃を受けてきたのでしょう)。
 でも、これからもずっとそんな社会であり続けるのかという問いに対しては、やはり不安を覚えざるを得ません。今年起きた様々な事件を機に、過労死やセクシャル・ハラスメントに対して上がってきた様々な告発は、上っ面の平等のもとで見えないことにされていたパンドラの箱が開かれていく音です。景気は上向きになってきていると言われていますが、格差の拡大についてはどうなるのでしょうか。ユートピアとディストピアが境界線をはさんで併存する社会は果たして豊かな社会なのでしょうか。外国人実習生という名目での低賃金労働や、生活保護の削減などは<弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者たちを叩く>などと口ずさんでしのげるほどの枠を越えているのではないか、個別の政策にどのような理屈があろうとも、その政策の影で搾取と弱者切り捨てが進むのではないか、そして社会が切り刻まれ、階層が作られ、不条理が姿を現しつつも動かしがたいものとして鎮座するその下では、「憎しみ」がスタンダードな感情として跋扈しないわけにはいかないのではないか、なんだかそんな危機感が、影のようにひたひたと後を付いてきます。

 愛の反対は無関心だと言われます。マザーテレサは憎しみついては何か語ったでしょうか。憎しみの対義語は慈しみだとして、果たして慈しみをもって照らせば、憎しみを打ち消すことができるのしょうか。
ぼくは宗教家ではありませんし、社会慈善家でもフラワーチルドレンでもないので、憎しみに愛や慈しみをもって対するという言い方には、ある種のためらいを感じるのも事実です。対話や傾聴はそれ自体ではひとつのテクニックに過ぎず、なによりもそれは個々の関係のなかでこそ力を発揮するものです(カウンター・アクションの意義も認めますが、それは対処療法であって、ヘイターたちをフィールドから退場させる効果はあっても、根本的な解決とは少し違うのではないかとも思っています)。
 シンプルに、憎しみの誕生を防ぐ方法を考えなくてはならない、あるいはゴジラを凍結するように巨大な憎しみが世界を破壊する前に冷温停止させなくてはならないということが、この間、ぼくの頭の中にある主要な関心事の一つです。なんだよ大げさだよ、お前みたいな凡庸な小市民に何ができるんだよという声はいつもどこからか聞こえてきますが、そのたびに、大げさなものをかみ砕くところから始めたいんだ、何ができるか分からないから、まず考えるところから始めなくちゃならないんだ、と言い返すことにしています。

 ひとつには、できるかぎり多くの他者と<開かれてある>関係を作ること。できるだけ常に<開かれてある>場を守ること。またひとつには不条理や不公正について耳を澄ましていること、踏みつぶされそうな誰かの声を聴くこと。安易な自己責任論に流れず、公正であることや公正であろうとすることの意義や価値について、時間と手間をかけて伝えていくこと。そして<常に開かれてある><絶えず公正であろうとする>という(いわば)綺麗事を、できるだけ綺麗なまま現実に埋め込んでいけるような手法を考え続けていくこと。先ほど書いたヨーロッパへ渡航する若者は、ヘイトスピーチやレイシズムについて「恥ずかしいと思わないのか」という疑問の言葉を発していました。個人の印象や好き嫌いや恨みつらみは認めるとしても、その感情を差別という形で正当化すること自体がおそろしく醜いことのように映る―ぼくもまた、彼の感じ方に賛成です。このシンプルで自明な、理性と感性の結びつき(倫理と美学の結びつきともいえるかもしれません)は、何よりも大切にしなくてはならないと思います。
 最近、自分のやっていることは何なのか、やろうとしていることは何なのか、うまく言い表す方法がないかと思案した挙句、「未来建設業」ということばを思いつきました。自分ひとりでは絶対に造ることのできない、設計図を持ち寄っての試行錯誤が頼りで、サグラダ・ファミリアよりも果てしのない事業―

 サン=テグジュペリは『戦う操縦士』の中で、こう書いています。

 私の属する文明の人間は個々の人間から出発しては定義できない。個々の人間は人間によってはじめて定義される。あらゆる存在のうちにおけると同様、人間のうちにはそれを構成する素材によっては説明しがたいものがある。ひとつの寺院は石材の総量とはまさに別のものだ。石材は幾何学であり、建築学であるに過ぎない。寺院を定義するのは石材ではない。寺院はその独自の意味によって石材を豊かにするのだ。それらの石材は、寺院の石材たることによって尊くなったのだ。このうえなく多様な石材が寺院の単一性に奉仕している。寺院はその賛美歌のなかに、どんなしかめた口でも吸収してしまう。

 これにぼくは(おこがましいことは承知で)次のことを付け加えて、この饒舌なポストを終わりにしたいと思います。すなわち―

 それでもぼくは、個々の人間を通じて人間が実現することを信じる。個々の人間が人間という定義に向かって生きていく歩み、それぞれの石材が寺院の意味を支えていることに誇りをもつこと、それこそがよりよい文明への道を作るのだ、と。



 今年5月、マンチェスターで起きたテロに対して、あちこちで歌われた”Don’t Look Back In Anger”。アリアナ・グランデのステージでクリス・マーティンが歌った映像も、もちろんマンチェスターの人たちが街で合唱した映像も心を打つものでしたが、これはフランスのギャルド・レピュブリケーヌがフットボールの試合の前に演奏した様子。イングランドの応援団たちの大合唱が聴けます。歌うことはけして無力ではない。音楽は無力ではない。テレビやネットから流れるうただけではなく、有名人がステージ上で歌い上げるうただけではなく、きみが口ずさむうたにこそ、世界を変えるだけの力がある。別の動画に寄せられていた"All france are with you,England"というコメントにもぐっときました。
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2017年01月22日

any alarm and any surprise

 あの頃のことを覚えている人は思い出して。
 まだ若くて想像できない人も、この曲を聴いて、それからテレビやネットで見たり聞いたりしたことのある「20年」を思い出しながら、読んでほしい。


 偶々に立ち寄ったガソリンスタンドで、Radioheadの”No Surprises”が流れていた。



a job that slowly kills you,
bruises that won't heal.
You look so tired-unhappy,
bring down the government,
they don't, they don't speak for us.

 1998年1月リリースのシングル、アルバムは97年の12月だから、この曲が書かれてからもう20年になろうとしている。
 でも、<仕事にゆっくりと奪われる命>や<わたしたちを代弁してくれない新政府>−こんなフレーズたちは、つい最近の出来事を思い起こさせないだろうか、それはつまり、あのころと僕らは何も変わっていない、ということなのかもしれない。

 そのなかでも、
“they don't, they don't speak for us.”
の”us”について、いまは考えてみたい。「わたしたち」とは誰か、ということだ。

 大学に入って最初に出た講義は「偏見・差別・人権」という名前だった。「日本国憲法」と併せて、これは全学部生必履修であり、要するにヒヨッコが曲がりなりにも「市民」となるために絶対に身につけておかなくてはならない教養であったといえる。

 あの時の授業の内容について、だいぶ記憶はぼやけてしまったけれど、そこで取り上げられたテーマが何であったかについては、しっかりと覚えている。なにしろ、それらは今も同じようにテレビで、新聞紙上で、ネットで、あれこれ言われ続けているのだから。

 ジェンダー、LGBT、同和問題、宗教と道徳、外国人と国籍…わたしたちが、「わたしたち」と「わたしたち以外の人々」に線を引きたがる心の仕組みは本能的なものだとして、すくなくとも、その線の位置を動かしたり、線の濃さをぼやかしたりすることはできる。そんな希望のために言葉を紡ぎ、行進し、歌をうたい、制度を変えようとした人々はたくさん居ただろう。夢を語り道を指し示すリーダーや思想家が生まれ、理想を信じ、共有し、実現に向かって努力をした人々の数は数えきれないだろう。けれど、同じように、その理想を信じられず、むしろ脅かされたと感じ、嫌悪の情を覚え、自分を守ろうとー自分たちを守ろうとする人々が計り知れないほど現れたこともまた、ほとんど確かめる必要すらないに違いない。

 あいつらが仕事を奪う。あいつらは郷に入っても郷に従わない。あいつらはこちらの価値観を踏みにじり、わたしたちが作ったルールを受け入れようとしない。
 わたしたち以外の誰かが、いつもおいしい思いをしている。わたしたちは報われず、奪われ、無視されている―この20年の間に生まれた世界中の「わたしたち」は、こんなふうに、割に合わない気分にもとづく連帯のように思える。常に「わたしたち以外」への警戒や恨みを規約にもった互助会のように思える。

 大統領が代替わりし、ホワイトハウスのウェブサイトからLGBTの権利、公民権、気候変動、そしてオバマケアに関するページが削除された。このニュースは、現代史の主戦場がどこにあるのかを指し示しているひとつのものさしではあるけれど、その根っこにある「気分」については、いまさら分析するまでもなくて、ぼくらの国をはじめとして世界中で「誰が叩かれ、何が禁じられたのか」を見ていけばなんとなく分かるだろう。

 排外主義も、理不尽な差別も、水に落ちた犬を叩くようなさもしい心根も、すべて<心の安定がほしい>という種をもっている。

Such a pretty house
and such a pretty garden.

No alarms and no surprises,
no alarms and no surprises,
no alarms and no surprises please.

 心の安定を願う気持ちは、誰の心の中にもある。それが弱さに振れていく場面も珍しくないということも、誰もがよく知っているはずだ。ただ、だからといって自分がその森に迷い込む必要はない。
 その種を分かち合うために生まれて増殖し、互いに食い荒らしては分裂していく、ゾンビのような<わたしたちの群れ>に、取り込まれないでいること。群れのなかで、ひたすらに<わたし>であることーダイバーシティとは、そのような孤高と、表裏一体なのだと思う。
 alarmもsurpriseも、できる限り恐れずに進まなくてはならない。可能な限り受け入れたい。
 “There’s no countries”と歌ったあの人は、きっと国境線だけを指していたのではなくて、あらゆる境界線を、あらゆる分断を、ぼくたちが越えていける日のことを夢想していたに違いないのだ。最初に踏み越えるべき線は、自分の中にあるのだとあらためて確かめながら、2017年はじめの投稿を。今年は毎月ブログを書くことを目標にします。がんばる。
posted by youcan at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々、時々雨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

マニック・マンデーのための覚書

 千石モールという商店街がある。
 商店街の入り口にアーチが立っていて、入ってすぐのところにセカンドビートというレコード屋さんがある。その手前にシンバルというイタリアン・バルがある。この二軒に時折行く以外は、自分にとってもあまり馴染みのない商店街だ。
 少し奥へ進んだところに、定食屋さんがあった。というより、いまもあるかどうか知らないだけで、まだやっているのかもしれない。高校生のときに一回使ったきりの、たぶん何の変哲もない食堂だったと思う。

 高校時代におけるぼくのコミュニケーション能力の欠如については、いまさら恥じ入っても仕方のないことで、体育祭をはじめとして、みんなが輪になって何かをするような学校行事は軒並みボイコットしようとする、なんとも嫌な奴だったのだけれど、一度だけ、みんなの見ている中で、ほんのちょっと活躍したことがある。2年生の文化祭だった。

 隣のクラスにナルセという男子がいた。たしかバスケ部に入っていて、髪の毛はさらさらだし、ユーモアもあって友達は多く、ぼくとは遠い世界に住んでいるように思っていた彼が、ある日ぼくを訪ねてきた。文化祭でバンドをやるので、ベースを弾かないか、という誘いだった。ぼくがベースを持っているということをどこで聞いたのか不思議にも思ったが、「宿題を見せてくれ」以外で誰かから頼られることはまんざらでもなく、快諾した。
 ナルセが集めたメンバーは、確か7人だったと思う。ボーカルが1人、ギターが2人、キーボードボーカルの女子、ドラムは後輩で、ベースがぼく。顔は知っているけれど普段交流することはなく、授業で一緒になるのは体育くらいだけど、体育が大嫌いだったぼくはその50分を空気になりきることしか考えていなかったので、まあほとんど初対面みたいなものだ。何より同じ高校に通うメンバーでバンドをやるというのが面白くて、普段木彫り人形みたいに同じ表情で一日を過ごしていたぼくにしては、精一杯の社交性を見せて参加したつもりだった。

 日曜日、みんなで千石モールに集まって、ボーカルだったヨッチの家で選曲会議をした。選曲は、ガンズアンドローゼスとかエアロスミスとか、ハードロック中心だったと思う。一曲だけキーボードのNがバングルスを歌うことになった(いま思うとあの時代にバングルスというのは凄く渋いし、センスあるチョイスだったのではないか)。ぼくは何でもよかったので―文化祭でソニック・ユースをやったって誰も喜ばないことくらい知っていたし、普段あんまり聴かない曲を演奏するのもまた楽しみだった―相槌ばかり打っていた。演奏曲が決まって、Nとドラムの後輩は帰っていったが、残ったみんなで飯でも食いに行くかということになった。ちょっと時間が遅くなって、ランチタイムはもう過ぎていた。商店街を適当に歩いて、どこか目についた店に入ろうということになり、たまたま空いていた定食屋に入った。
 ぼくはその頃から好き嫌いがひどくて、重いものが食べられなかった。ほぼ一択という感じでざるそばを頼んだ。みんながちょっとびっくりした。定食屋にざるそばがあるんや。お前そんなんでいいんか。うん。みんなに運ばれてきたのは、いかにも定食屋、といった、懐かしい感じのエビフライ定食、とんかつ定食、ハンバーグ定食だった。ざるそばの味は覚えていない。食べながら話したことも他愛のない、さして面白くもなかったことだったように思う。でも、なぜかあの光景は忘れることができない。窓際の4人掛けだった。曇り空、淡い灰色の石畳に跳ね返る光が、狭くて薄暗い店内に差していた。

 それから数回スタジオで練習した。文化祭のステージはまずまずで、みんなで打ち上げにも行った。ドラムの後輩とはその後も数度スタジオやステージで一緒になった(リズム楽器に需要があるのは今も昔も変わらないだろう)けれど、他のメンバーとは再び疎遠になった。ぼくはまた付き合いの悪い、何を考えているのかよくわからない木彫り人形に戻って、千石モールへは卒業まで足を踏み入れることがなかった。

 一昨年の秋、東京で、卒業してから初めてナルセに会った。いまは作曲や編曲を職業にしているのだという。ジャニーズやアニソンなど、大きな仕事もしているようで、とても誇らしく思う。ほかのメンバーのことはわからない。後輩はお父さんがスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドにも参加しているミュージシャンで、本人もスティールパン奏者で生計を立てたいと言っていたから、夢を叶えていてほしい。キーボードのNは摂食障害になったという話で、しばらくしてからあまり学校に来なくなった。数年前に別の友人から、彼女が高校生活で一番楽しかったのはあの文化祭だったと言っていた、という話を聞いた(友人がそれを聞いたのは、さらにずいぶん前なので、もう昔話だ)。高校生離れしたアンニュイな雰囲気の、きれいな女の子だった。
 富山に帰ってきてすぐの正月、友人と飲んだのがシンバルだった。シンバルの山本夫妻は音楽がお好きで、フジロッカーでもあり、お店にはトム・ヨークの似顔絵が飾ってある。以来、折に触れて訪ねるようになって、ワイン二本開けて椅子から転げ落ちたりしている。迷惑をかけっぱなしなのにいつも暖かく迎えてくださる、ありがたいお店だ。奥さんはさっぱりして人懐っこく、全然違ったタイプの女性なのだが、なぜだか時々Nを思い出す。場所が記憶と結びつく力というのはほんとうに面白いものだね。


posted by youcan at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする