2008年08月22日

つまらない覚書

普段、ステージの上から見える景色を、
僕は覚えない。
何かが見えていて。
でも、何が見えているのか忘れてしまう。
ステージの照明が強すぎるからか。ステージが高すぎるからか。


けれど、leteで歌うときは、案外といろんなものを目に焼付けていて、明かりがまぶしかったとか、扉の向こうに一瞬明滅したパトカーのひかりとか、一番手前の彼女が飲んでたのが一杯目は何かのカクテルで次はビールだったなとか、壁際の彼はいつか目を閉じて聴いてくれていたな、どんな景色が浮かんだのだろうなとか、
帰り道で、そんなことを思ったりする。


前回の日記に載せたことば、
随分前にどこかで言ったことだけど、訂正したい。

東京のひとが、飽きやすいわけじゃなかった。
飽きられるとすれば、歌う側の魅力がなくなったときだ。
溢れる表現のなかで、飛び交う情報のなかでー
私の奏でる音楽が他の誰かや何かと交換しても同じだと暴かれてしまうときに飽きられてしまうのだろう。
忘れられてしまうのだろう。

おそらく東京が、それを目の当たりにする機会を多く持っているだけ。京都であろうと富山であろうと本質は変わらないのだと思う。


表現の世界はいつだって残酷で、つまらないものはつまらない。
でも忘れてはいけないのは、表現そのものは選挙運動ではないということ、声高なものが勝つ弱肉強食のルールは、表現そのものに直接関わりをもたないということだ。


渋谷のRISE Xで"ビューティフル・ルーザーズ"を観た。
「ルーザーズ」とは言え、彼らは社会的に認知されることに成功した芸術家だった。商業的な成功も付随し、心置きなく創作に没頭できる彼らは、もうルーザーではないのかもしれなかった。
ひとつ決定的なことがあるとすれば、はじめから勝負を降りていること。勝つか負けるかというテーブルに着こうとしなかったという意味で、彼らは既に、ずっとルーザーだったのだと思う。


もう一回書く。表現は、選挙運動じゃない。
自分の中の金鉱を掘り当ててゆく、残酷な、それでいて圧倒的に幸福な作業だ。

自分にそれが許されていることに、心から感謝する。
場所が与えられ、時間が与えられ、メロディやことばが与えられ、それを曝け出す機会に観に来てくれるひとがいることを、とてもありがたく、幸運に、思う。
posted by youcan at 09:26| Comment(1) | TrackBack(0) | 日々、時々雨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする