銭湯帰りの道すがらその中に掘り出し物を探すのが日課になっている。
「ことば」について考える。
自分自身のつかう「ことば」について。
常日頃あちこちに吐き散らすことば。
頭の中を夜毎、ぐるぐると低回することば。
ときどき思い立ってはここに書きつける虚仮おどしの文章たち。
レコーディングに際して、新曲を書いた。
高橋健太郎さんの、取り壊し間近の大田区の家で録音は行われた。健太郎さんはまず僕が歌うのをざっと聴き、このギターを使ったらどう?と提案してくださったりする。
一曲、クラシックギターを使おうということになったのだけど、ネックが太すぎて上手に弾けない。そのうち僕の声も枯れてしまい、作業は翌日に持ち越しとなった。
その晩、練習をするつもりが偶然、曲が書けてしまい、翌日(つまり昨日)は急遽そちらを録った。
もちろん歌詞も書き下ろし。
こないだのleteでも話したのだけど、新曲のいくつかで、ずいぶん散文的なことばを使った気がする。
僕は家に帰って布団の中で、レコーディング用にプリントアウトした歌詞のシートを見て、おびえる。
韜晦はなくなったけれど、その代わりに、ずいぶんと退屈になったかもしれない。
陳腐になったかもしれない。
いや、そうだとすれば、
もともとの陳腐さが露呈した、ただそれだけだろう。
昔に比べ、平凡さを恐れなくなった自分がいる。
(そのことには、ごく最近気づいた。そして困ったことに、平凡さを恐れなくなった自分を恐ろしいとも思うのだ。)
-話しなさい。話して話して、自分を丸裸にしてしまいなさい。あなたの言う、守るべき自己の尊厳なんて、つまらない。
誰かがこんな風に言っていた(書いていた)。
自分のことばかり書くのはいやだといいながら、今日の出来事を書くとついつい内面にまで筆が及ぶ。自分のことを語るのは、自分の「見えてなさ」をさらけ出すことと同じような気がする。
ことばは、構築しようとする僕の意図とはいつも裏腹に、ただ暴き出してゆくのだ。難しい。
違う。こんな事を書きたかったのではなくって、
ただ明日の投げ銭ライブと、あさっての石橋英子さんとのステージのお知らせと宣伝をしようと思っただけなのだ。
キーを打つ指先さえ、僕の検閲なんて聞こうとしないらしい。
とにかく明日お暇な方は夜九時、高円寺にお立ち寄りください。入場無料です。
あさっては渋谷、宮益坂。なにか面白いことをします。