シグナレスのデモ録りのために行った池永邸では、二か月になる娘のかんなちゃんがにっこり笑って出迎えてくれた。
LIVE JUNK開演前のHOMEでは、リハに行ったゆかりちゃんと離れたくなくて泣く共鳴。
ここ2年ほどの間で、身のまわりに小さないのちが増えた。
実家に帰れば、兄の子供たちが着々と大きくなっている。上の女の子は今年小学校高学年、下の男の子は幼稚園の年長さん、だったろうか。会うたびに表情が変わっていて、面白い。
時は流れている。皆いつだって"そういう年齢"になる。
彼らが生きてゆく百年、暮らしてゆく世界のことを想おうとしてみる。なにもわからない。明日のことも、自分の数年後のことも、息絶える瞬間のことも想像できないのだから、当然なのかもしれないけれど。
せめて私が生きていたことが後世に繋がるように、ここをずっと伸びてその先に紡がれてゆくはずの糸を私が断ち切ることのないように、生きること。この人たちの人生を満たすだけの歓喜と涙、笑いと怒りとの総量を増やしこそすれ、削ることのないようにすること。それだけは強く思っている。
ここ最近、ことばによってすれ違ったり絡めとられたりすることが多くて、見渡せば、賞賛も誹謗も、罪することも奪うことも、すべてことば、ことば、ことば。ことばは乱発されて、発言者の意図に振り回されて、疲弊し、うんざりているように思う。
僕たちは伝えなくては伝わらないことの多い生き物なので、そのかけがえのない伝書鳩である「ことば」は大事にしなくてはならない。ことばに憎悪され、軽蔑されるようなことは、本来あってはならないのだ。
子供たちが大切にするコミュニケーションの方法を眺め、そのなかに身を置いて、そして振り返ってみると、ことばを酷使せず、依存せず、過信しない対峙のなかから生まれてくるもの(それが何かはうまく言えないけれど)によって、ことばと僕らとの正しい関係が見えてくるように思う。
以上、雑感にもならない漠然とした印象を、ことばによって無理やり落とし込んだ記録、おわり。