二日続けて「KIKOE」「ライブテープ」を観た。
「KIKOE」は、5年ほどの間に録り溜められた大友良英さんの演奏の映像と、いろんな人のインタビューを、岩井主税監督の視点で再構築し、大友さんがその一端に触れている「何か」を浮かび上がらせようとする映画。時系列もばらばら、ひとりが話すこともいったん断片化されて、監督の随意でさしはさまれてゆく。
「ライブテープ」は、前野健太くんが74分ほぼ歌い続けて、松江監督とクルーがワンカメラの長回しでずうっと追ってゆくというやり方。元旦、吉祥寺の神社から井の頭公園まで、前野健太の歌ひとつひとつがエピソードのように積み重なってゆき、最後はバンドメンバーと共に演奏する。
出来栄えがどうかということは分からない(たぶんどちらも素晴らしい)が、とにかく観てよかったと思った。
かたやポスト・プロダクションの結晶のような作品、かたや編集を一切しない(録音のミックスと字幕くらい?)作品。まったく反対の方角を向いた手法で、ひとりのミュージシャン(こういう括りをすること自体馬鹿げているが)を支点にした二本の映画のどちらからも受けた印象は、テーマとしての音楽家と、映画の方法が呼び合っている、ということ。
大友さんだから「KIKOE」になった。
前野くんだから「ライブテープ」になった。
それは本当に幸福な出会いだ。
みなみ会館の職員さんが、前野君に「ほかのミュージシャンが嫉妬するのでは?」というコメントを向けていた。それはある意味では、正しいと思う。
僕は、松江監督と前野健太の出会い、20人のスタッフの一致団結や創意工夫のすべてが前野くんの歌に集まり、彼の歌がまるでペン先のようになってすばらしい物語を紡いだこと、それが「ライブテープ」という作品になり世に出て、たくさんの人に愛されるようになったこと、そういう神さまの祝福に、ほのかな嫉妬を覚えている。
だけど、これは前野健太の歌がなくては始まらなかった話。
そして彼とまったく同じように、人前でうたを歌う者、演奏する者は、けして自分ひとりで歌い演奏できているわけではないのだ。歌は、音楽は支えられ、聴かれ、誰かにまた伝えられて、波紋のように遠くへ広がってゆく。たとえそれが答えのない疑問符自体でも。「生きていかなきゃ」という独白でも、同じだ。
そのことに気づかせてもらった二夜だった。
posted by youcan at 02:43|
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日々、時々雨
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