道なりの八重桜は花を落とし尽くし、替わって目にも鮮やかな若葉を繁らせている。日傘を差しかけるように風にさわさわと揺れている桜、その麓に今度はつつじの花が真っ盛り。この花の色はマゼンタではなくて、やっぱり紅紫と呼ばなくてはならない。誰に向けて、何を望んでこれほどまでに鮮やかで艶やかな色を纏っているのか、考えるほどに不思議な花。丁寧に刈り込まれた小さく円い木は、まるで精妙な折り紙の毬のように見える。
紅紫の毬と黄緑の日傘、そしてコンクリート製のベンチ。木陰のコンクリの冷たい感触にも心地よさを覚える季節になっていたたことに気付いたその瞬間、何もかもに触れたくなっている。木に凭れかかり、葉に指を触れ、ベンチに手を置く。樹液が幹を上下する音と、つつじの蜜の味の記憶を手繰り寄せ、ずっとそこにあり続けているベンチを取り巻く空気こそが季節によってその温度を変えてきたことを想う。
大げさにいえば味覚は食物が舌に触れる感覚、視覚は光が目に触れる感覚、聴覚は空気の震えが耳に触れる感覚、気温さえ空気が全身に触れる感覚、ぼくらはすべて「触れる」ことでしか感じることが出来ないように出来ているらしい、そんなことを考えながらふと桜の向こうの河川敷を見下ろす。コンクリートで丁寧に守られた川岸は意外なほど朗らかな音を立てて流れ、傍らのベンチ―こちらは西日だまりのなか、営業がえりと見受けられる背広の男性が缶コーヒーを飲む。
あのコーヒーの味、その甘さと冷たさは僕にも分かる気がする。それは、引っ切り無しに車が行き来する広い道路のすぐ隣であることもときに忘れてしまうようにしつらえられた、あらゆる舞台装置がもたらしてくれるかけがえのない味だ。