今日、彼らのアルバムが発売になった。6年も前に活動を休止したバンドの2作目。2002年ごろに録音された音源が、8年の歳月を経て目を覚まし、ミックスされ、マスタリングされ、作品化に必要な手続きを経て、世に送り出された。CDの規格で定められている収録時間の74分を越えて76分間、一曲30分の大作も交え、ぎゅっと詰め込まれたこの「lemniscate」という作品は、けれどその長さにもかかわらず(あるいはその長さゆえにか)これが永遠に終わらないでほしいとさえ思わせてくれる濃度だ。ディスクの中に封じ込められた音楽たちが其処に舞っているのが見える。
実は、リリースにあたり、ぼくもいくつかの過程でお手伝いさせていただいた。印刷会社の手配や地元店舗への営業など。そのせいもあってなおさら強く感じることは「録音」という行為がもつ呪術的な正確だ。
エジソンが蓄音機を発明したのは、そもそも家族の声を録音しておくためだということをどこかで耳にした。真偽のほどはともかく、蓄音機の性格は、まさにそういうものだと思う。どんな音楽作品も、録音された時間の再現だということ。まるっきりバルトの『明るい部屋』みたいだけれど、ぼくがこれを聴くときには、もうこの音楽は(そしてこれを奏でていたひとは)ここにない。そんなふうに思って聴くと、CDは、まるで位牌だ。ジャケットは遺影―しかも、どちらもとびきりマジカルでポジティヴな作用を持っている。音楽が流れている間、ぼくらはいつだって其処に戻れるのだから。あの頃ののんさんも(2010年ののんさんには昨夜お会いした)、オカザワさんも、そしてちゃいなさんも、Jesus Feverというバンドは『lemniscate』のなかに、居る。さらに重要なのは、彼らはただの想い出ばなしに戻って来たわけではなく、誰かと新しく出会うためにやって来ている、ということだ。
音源はデータになっても、音楽は絶対にデータではない。そしてCDというアイテム―身も蓋もなく言えば、データを書き込んだだけの円盤が、前時代の遺産の仲間入りを果たさずに何らかの意義を持ちうるとすれば、まさに Jesus Fever『lemniscate』のような、出会われ方と待たれ方の可能性を持った「もの」でなくてはならない。古い人間らしいことを言うけれど、たかがプラスチックと紙とで出来たデータの容器(と、さらにその容器)が録音された時間を閉じ込めたとき、その容器ゆえにこそ「録音」の価値を保証するという、なんだか儀式めいたことがあり得るのだということを、作り手や売り手が具体的に信じなくてはならないのだと思う。
それにしても、無事店頭に並んで、ほんとうによかった。一日納期が遅れていたら発売延期、という綱渡りのスケジュール・・・どうか、たくさんの新しい出会いがありますように。