自動車が一台やっとすれ違えるくらいの幅、アスファルトではなく石畳で舗装された道路、水銀灯の一本一本に商店街の旗が掲げられて、電柱のあいだを張り巡らされた電線が生きている街を証しているように見える。その下にはさほど個性のあるわけでもない、けれどだからこそ胸を張って八百屋らしい八百屋、同じように荒物屋らしい荒物屋、そば屋らしいそば屋...そのどれもが、これまた駅然とした駅を起点として、東西にあるいは南北に続く。歯医者帰りの老人、スタジオに向かうバンドマン、犬の散歩をするおばさん、石畳が気分を軽くくしているのだろうか、右側通行も何もなくめいめいが道の真ん中を、左側を、思い思いのスピードで歩いてはすれ違ってゆく。
とくにこの時期は、ひとがただ歩くだけで巻き上がる、圧倒的な「押し迫りの空気」が何とも言えす面白い。遠回りでも、さしたる用事がなくても、わざとこういった石畳の商店街を道筋に選んでみたりしたくなる。魚屋の軒には伊達巻きや昆布巻きといったおせちの具の名を連ねた張り紙、なぜ?と思うような街の靴屋でも突然の大売り出し、やたら大きな紙袋を抱えた人が増え、歳末商戦という単語が別に大きなデパートのためだけにあるのではないのだと知った。
だが、いくら人の多い東京といえ、どこもかしこも賑わいというわけではない。日常があちこちで軽快にざわめく通りを抜けて、石畳の終わりに差しかかるとき、そこから始まるアスファルトの上になんとも言えない寂しさが落ちているのを感じないか。偶然その傍らに空きテナントの張り紙を見つけたりしてしまうと、さらにその寂しさは路面から立ち上がって見えてくる。
不思議なことに、石畳のあるあいだに見かけた空き店舗にはそれほどの寂しさを覚えない。また、たとえばさほど人通りのない時間―たとえば早朝にも、石畳には押し迫った気分が抜けずに残っているように思える。舗装ひとつで、どうしてこんなに街の景色が、空気が変わるのだろう。京都では、祇園や西陣や先斗町といった地名自体に大きな意味のあるところで舗装を変えているケースが多いが、むしろ、街中に散らばる駅たちからめいめいに伸びるメインストリートで石畳を敷き詰めているこの東京という都市においてこそ、舗装の持つ力がはっきりと分かったような気がする。今日はどの通りを行くのだろうか。