自動車に乗っても、電車に乗っても、飛行機に乗っても、自転車でさえも、移動の最中にふと、これだけでは家に帰ることができない、と感じることがよくある。どんな乗り物も最後は降りて玄関まで歩かなくてはならない、というつまらないオチなのかもしれないけれど、それにしても「帰る」という動詞の大きさに追いつくことができるのは、やっぱり「歩く」しかない気がするのだ。
職場から家までは徒歩で30分あまり。ほの暗く燈った蛍光灯の間、この街特有の碁盤の目を、昨日はあの通り今日はこの通りとでたらめになぞりながら北上する。一度だけまたぐ丸太町通りを除けば、未知はどこも静かだ。履き潰しかけたスニーカーの薄っぺらな底から這い上がってくるアスファルトの冷たさ。ふだんは靴音よりも速度を上げて過ぎ去るものたちが、からだの中でBPMを下げてゆく。考えごとは歩みの速度まで降りてくる。もどかしくはない。ペンキを下塗りするローラーのように、丁寧に、いろんなことを思い出せるような気がする。
歩みのなかで生まれるリズムも、歩みの中で流れ去ることばも、ときに歩みと足並みをそろえ、また気まぐれに逸れてゆくメロディも、すべてが一緒に家まで付いてくる。電車の中には、うたを置き忘れてきたりするけれど、道端にリズムを落としてきてしまった、という経験はまだない。
でも、お酒を飲んでしまうと、だめだ。ぼくは酒には強い方だと思っているが、酔っぱらう代わりにやたらと気が急いてしまう。歩く喜びよりも、早く行かなくては、という思いが前に出てきて、歩く喜びをれてしまうのだ。これだけは、なんとかならないものだろうか。
いまは、サンレインの事務所にいて、これからいったん家に帰り、夜になればメトロに行く。帰りは明日の明け方になるだろう。小さな頃は、帰ると言えばほとんど「夕方」を指していた。中学に上がり、塾に通うようになって夜の帰宅を覚えた。やがて明け方の帰り道の、さまざまな匂いを知るようになり、いまは家路の空が何色にでも成り得る。とはいえ今日は久しぶりの、4時台の帰宅だ。先生さようなら、みなさんさようなら、さて、うたでも歌いながら行こうかしら。