2012年04月26日

 葉のたくさんついた花が、すきだ。

 たとえば葉桜。満開のソメイヨシノは確かに華やかだけれど、花があまりにぽってりとして、枝に重みがかかりすぎているように見え、少し可哀想にもなる。花が半分ほど落ちて側溝に花弁が積り、枝に残った-とはいえすぐに去ってしまうはずの花と、萌え出したばかりの若い黄緑色の葉が混じるころの色合いが、いちばん自然に見えるのだ。
 もうすこし言えば、枝垂れ桜の葉桜がじつにすばらしい。どうして枝垂れなくてはならなかったのかは知らないけれど、地球の重みに沿って枝を垂らす木に顔をのぞかせる新緑は、まさにいのちが「生まれ、そだつ」のだということを教えてくれているように思う。いや、これは言い過ぎか。でも本当にきれいなのだ。少なくとも毎日、帰り道を20分ばかり遠回りするくらいの価値はあると思っている。


 何気なく全体を指して「花」ということが多いけれど、美しさを担保するのは、じつは花そのものでもなく枝や茎や葉だったりする。花だけにフォーカスを当てたオキーフの絵も嫌いではないが、あれをただ「美しい」」と言いきることにはやはり抵抗がある。



 月曜日は、鍵盤の岡村ちゃんの誕生日だった。
 メトロに向かう途中の花屋さんで、彼女に贈るための花を買った。フレンドリーながら自分のペースで会話を勧めてゆくおばあちゃん店主と、年のころ40がらみの体格の良い息子さんが相談に乗ってくれた。いまの花か?、今の花といえば山吹やな。あと誕生日やったらバラ入れといたら間違いないわ。リボンはどうしとく?お友達はかわいらしい子か?きれいな子か?山吹はお洒落な感じになるから、しゅっとした色にしといたほうがええなあ。水色?でもとってつけたようになるで。でも、ちょっと変わった感じにしたいんか?わかった、ほな、息子に選んでもらうわ。


 ほんでなあ、おにいちゃん、長さはどのくらいで切っとこ?長めか?そうやなあ、山吹はあんまり切らんほうがええわ。


 出来上がった花束は、本数こそ少なかったが、ちいさな葉とちいさな花(ほんとうに山吹色だった)をつけた山吹がきれいなアーチ状を描き、濃いめの色みのバラ、群青色の包み、春の街の空にとてもよく映えた。右手で根本を持ち、左手で抱えるようにして鴨川を渡るとき、なぜだか晴れがましい気持ちになった。

 岡村ちゃんは大阪から何本かの電車を乗り継いでメトロへ来ている。鍵盤を背負っての移動なので、花を渡しても荷物になるだけかと気がかりでもあった。でも、なんといっても恋人の誕生日だ。今日はきっと彼氏も観に来るに違いないから、手分けして持って帰ってもらおう、という予想の上で選んだ贈り物。びっくりする岡村ちゃん(まさかぼくから花をもらうなんて思いもしなかっただろう)を脇目に、わざとらしいくらい澄ました顔をしていた自分のことを我ながら意地悪だとも思ったのだけれど―そののち、家に帰って考えるに、いくら大事な友人だからといっても、あそこではやはり彼氏を立てなくちゃならなかったかもなあと、それまでの得意げな気分はどこやら、気配りの出来ない差し出がましさに反省。贈り物というのは難しいと痛感させられた。


 ただ、それでもハッピーバースデーには花が一番いいという意見は揺らいでいない。花束を持って誰かを祝いに行くとき、自然と背筋が伸びるように思うのは、きっと僕だけではないはず。食べるためとか飾るためとかを差し置いて、「喜ばせる」といいうシンプルな目的に特化しているからだろうか。あとは、花は意外とリーズナブルで、そのうえいつまでも場所をとって使い道に困るという心配のないのも、大事なポイントかもしれない。


 さて、いつの間にかこんな時間。帰り道は、すっかり花の落ちて緑だけになった枝垂れ桜の下を歩くとしようか。
posted by youcan at 02:06| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする