「たがみせんせい」は、呉羽駅前を横切る通りから三分ほどのところに診療所を構えていた。診療所といっても、普通の家と同じつくりの玄関、その先に板張りの床の待合室、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、今だったらかえってお洒落ぶったカフェのフロアのようにも見えたかもしれないが、その当時は権威も瀟洒もなんにも感じさせない、かろうじて消毒液の匂いとなんだかよくわからないホルマリン漬けの一つ二つがお医者さんの雰囲気をにじませているだけのただの部屋、その向こうに「たがみせんせい」の診察室があった。
「たがみせんせい」の椅子は、びっくりするくらいぎしぎし鳴った。待合室で絵本を読んでいるときも(たしかレオ・レオニの本がたくさんあったような気がする。ぼくはレオ・レオニが好きで、家でもしょっちゅう読んでいたが、「たがみせんせい」が好きだった理由には、あのレオ・レオニ蔵書も多分に含まれていたはずだ)、「たがみせんせい」が振りかえった、とか、立ち上がった、とか、そんな一挙一動を椅子のぎしぎしが伝えてきた。三,四回ぎしぎしいえば、だいたいひとりの診察が終わる。甘い水薬をもらえそうな風邪のときはなんとなく楽しみに、痛い注射(「たがみせんせい」の注射は、なぜかものすごく大きくて痛かった。だから、注射をされそうな予感がするときには、祖母にせがんで「いわきせんせい」に行きたい、と嘆願したりしたのだ)のときは大いなる恐怖を持って、ぼくはぎしぎしがあと何回鳴るのかを数えていた。
「たがみせんせい」の顔については、もう記憶は曖昧になってしまった。真ん中は禿げあがり、白いぼさぼさが側面から伸びていて、バック・トゥー・ザ・フューチャーのドクにも似ていたような気がするけれど、それは後からのこじつけかもしれない。さらにそれ以外の外見についてはますますぼんやりとしていて、にもかかわらずぼくが「たがみせんせい」のことを昨日会ったかのように思いだせるその理由は、その声だった。
かれは、患者を診察室に招くとき、大きな声でその名を呼んだ。看護婦さんではなく、自分自身で、大きな、ひび割れたしわがれた声をあげて、患者をひとりひとり、その住んでいる集落(くれはえんの、やまもとさーん!!!)や、仕事(こばやししょうてんの、おばあちゃーん!!)など、何らかの所属を示す冠詞を付けて呼び込んでいた。そのたびに椅子はぎしぎし鳴った。
ぼくは、はじめ「まどかようちえんの、ゆうきくーん!!!」と呼ばれていた(もちろんぎしぎし込み)。風邪をよくひくこどもだったので、毎月はかならず「たがみせんせい」に会いに行った。それは医者に診てもらうというのとは違って、まさに「たがみせんせいに会いに行く」という書き方しかできないような感覚だった。祖母によれば、ぼくはまるでお菓子をねだるようにして、水薬ください、などと言っていたそうだ。「まどかようちえんの」と呼ばれるのがとくに好きだったように記憶している。私はきみを覚えているよ、と言ってくれているようで、それが嬉しかったのだろう。みんなに冠詞をつけて呼んでいたのだから、同じように感じていたこどもたちも多かったはずだ。
水薬は甘くておいしかったし、それでもだめなときは注射と粉薬だった。注射はもちろんのこと、粉薬も本当に苦くて、いやだった。けれど実際よく効いた。たった一度、薬でも注射でも熱が下がらず、下痢が止まらないことがあったが、そのときは入院した――厳密には入院する部屋などなかったので、診療所の二階、つまり「たがみせんせい」の家の一部屋を借りて寝込んだ。何の変哲もない畳の部屋だったけれど、あの襖、あの窓枠、あの天井、ふわふわした気分の中で差し込んできた午前の陽射、そして自分から漂ってくる熱の匂い、それらのことは今でも何故かはっきりと思いだせる。もちろんお尻に打たれた特大の注射も。
やがて呼び名が「ながおかしょうがっこうの、ゆうきくーん!!!」に変わった。「たがみせんせい」は校医だった。けれど、診療所は小学校の校区外にあったので、他の児童はあまりなじみがないようだった(みんな「いわきせんせいのとこ」へ行っていた)。健康診断のときなど、「たがみせんせい」が学校へやってくるとき、ぼくは密かな優越感を覚えた。このひとは、ぼくを覚えている。「たがみせんせい」は、学校ではぼくの名前を呼ばない。けれど、ぼくはあなたを知っている。もしかするとぼくは「ながおかしょうがっこう」で「たがみせんせい」を知る唯一の人間なのかもしれない!勝手に「たがみせんせい」と秘密を分け合っている気持ちになったぼくは、友達に何度も「あのひと、知ってる?」と聞こうとして、思いとどまるのに必死だった(こういう心の動きをどうして記憶しているのか、それが不思議でならない)。
三年生になってしばらくだったと思う。「たがみせんせい」は、亡くなってしまった。死因は知らない。お酒が好きだったと祖母が言っていたのを覚えているので、脳卒中だったのだろうか。お子さんがいらっしゃるけれど、別のところで診療所を開いているので、戻ってはこないだろう、ということも聞いたような気がする。ともあれ、やがて「くれはちゅうがっこうの、ゆうきくーん!!!」と呼ばれるようになるのだとぼんやり思っていたぼくの思いこみは永遠に実現しないことになった。風邪をひくと、みんなと同じ「いわきせんせい」のところへ行くようになり、「いわきせんせい」は注射を打たない人だったので、それ以来、予防接種と献血と麻酔を除いて、ぼくの注射人生は終わってしまった。
今年のお盆に帰省したとき、呉羽駅から実家まであの通りを歩いた。「たがみせんせい」の診療所があったところは駐車場になっていた。道路より少し高くなって、階段を何段か上ってゆくような作りだったと記憶していたのに、駐車場はまったく道路と同じ平面上にあった。ちいさな診療所だったと思っていたのに、意外と広かった。
実家に帰り、そのことを話すと、父は笑った――診療所が駐車場になってから、もう二十年近く経つのに、いまさら何を驚いているのか、と。実際そうだった。ぼくはあの道を通って高校へ通っていたはずだったし、中学から高校卒業まで行きつけの床屋は診療所のすぐ斜向かいにあったのだ。今頃になってあの駐車場が気になりだすのは、あまりにも滑稽だった。
ただ、いまは自分の無頓着をあれこれ言うつもりはない。あの、明け方の空っぽの駐車場の前で「たがみせんせい」の記憶がぼくのところに戻って来た、そのことを書きたいと思う。あのぎしぎしも、二階の映像も、健康診断の優越感も、もう会えないんだ、さみしいな、と思ったことも(ひとの死という出来事に直面したのは、曾祖父以来二回目だった)。
さらに付け加えておくと、それは全部「たがみせんせい」の声が連れてきた―あの駐車場に落ちていた「ながおかしょうがっこうの、ゆうきくーん!!!」をきっかけに、一度にすべてが戻って来たのだ。もう聞くことのできない声。だがそれは、なくなったのではない。きっと今でもどこかに、その場所に残っていて、ふとしたきっかけで、耳の奥にそっとしまわれていたものたちを一度に引っ張りだす。
声は不滅だ。あらゆるところに声が残っている。声に質量と体積がなくてよかったと思う。