個人的な好みを言うと、あの桜の代名詞になっている木は、ともすれば花をまといすぎて重たく、気の毒にすら見える。細めの、まだ若いしだれ桜などは、葉桜になってもどこか爽やかなたたずまいを残したままで好きだ。
四月一日、伯父が亡くなった。お通夜と葬儀は、伯父の実家でもある今熊野のお寺で行われた。
葬儀を終え、火葬場からまたお寺に戻って来た後、奥の座敷でちょっとした会食があった。
床の間、掛け軸の前に鉢植えの桜が飾ってあった。花はやや青みのかかった白、若葉が花と一緒に枝を飾っている。花と若葉はそれでひとつのペアのような付き方で、その数もほどよく、盥ほどの鉢のから伸びる高さ二十センチほどの姿が、とてもすっきり見えた。
もっと近づいて眺めたいと膝をすすめたところで、後ろからご住職(伯父のお兄さんにあたる)から声をかけられた。それは、漱石と子規が愛した種類のさくらだ、と。
この花の色と葉の付き方には、見おぼえがある。千本今出川の南西角に立っている桜の木が、たぶん同じものだ。葬儀が終わってからも、何度もその木の下を通った。しぜん、伯父のことを思いだす。ここ最近は会わなかったが、口ぶり、口癖、声、ぼくがこう言ったら何と答えてくれただろうか。
もう十年以上前、大山崎の伯父の家に居候させてもらっていたことがある。そのとき伯父はもう糖尿の治療でカロリー制限をしていた。お酒も煙草も止めていたはずだ。カリウムのことも気にしていたので、果物や珈琲でさえ摂取量の制限があったように覚えている。相当に豪快なひとだったので、ああいう摂生は一番つらかったのではないだろうかと想像する。
あるとき、こんなふうに言われたことがある。おじちゃんな、休みの日はお寺に行くのが好きなんや。庭とか花とか見ながら、ぼーっとな、すんねん。そうするとな、いやなことも忘れてな、気がすっとするんや。
大山崎には三カ月ほどお世話になった。やがて京都市内の安い部屋に引っ越して、のち、法事や結婚式などの行事以外ではたぶん一度も会わなかったのではないかと思う。いろんな事情が重なったり、多忙なくせに不安定で、並ひととおりではない暮らしの気遅れがあったりしたとはいえ、ずいぶん恩知らずだったと、いまさらながら後悔しているのは確かだ。けれどなぜかそれよりも気がかりなのは、伯父が結局、今年、桜を見ずじまいだったのではないか、ということだ。開花の知らせが伝えられ始めた三月半ばの伯父の病状を知らないからこその無責任な気持ちだとは自覚しているし、生まれつきなのか、間違って育ってしまったのか、不道徳で不謹慎な自分をとことん情けなく思いつつも、やはり、ごめんなさい、という気持ちよりも先に、窓からの三分咲きでも、誰かがお見舞いに持ってきた枝のつぼみのほころびでも、いや、たとえテレビの中であっても、花の便りをぼーっと見ていてくれたらいいのに、という思いが湧いてくるのを消すことができずにいる。
とあるレーベルの十周年を記念したリリース企画のお話をいただいて(詳しい内容についてはもうじきお伝えできると思う)、水曜、木曜と二日間アバンギルドでレコーディングをした。カヴァー曲をメインに八曲のなかで、古いレパートリーの「桜」という曲をもう一度録った。ファーストではエレクトロニカ風のトラックを友人に付けてもらったいたのを、アコギ一本でやりなおしている。歌詞も最後の二行をを改めた。
2002年の春に書いてひっそりと歌い始めた「桜」のすぐ後で、J-POPのチャートでも「さくら」「桜」という名曲群のシングルカットたちが嵐(桜だけに吹雪というべきか)のように吹き荒れた。ゆーきゃんの「桜」は、格別キャッチーでもない。ひっそりと佇んだまま、そのうち作者にもあまり歌われなくなって歳月だけが経った。
それでも、木曜日の朝、久しぶりに最初の三つのコードを鳴らしマイクに歌を入れたとき、この曲は、まだ枯れていなかった。よかった、と思った。
散り急いだ分だけ
アスファルトを染めたね
弱い風 四月の笑い声 あまりにも無邪気すぎた
目が乾き痛んでも 明日まで咲き誇るこの世界は
夜明けまで見ていたいね 綺麗ごと並べ立てて、さ
その下に何か埋まっている
その下に何か埋まっている
戯れの春を葬るように
その木には夢が詰まっている