でも、細分化され、ばらばらにされて、それで終わりというわけではない。ぼくらは原子のままでは生きられないからだ。結びつきを求めて、安定を求めて、全体に紐付けされる自分。網の目の中に固定化された静止画像のような自分。点描画のひと筆のように、共同体の物語とぼくら自身の物語の関係が、いつの間にか逆転してしまう。
世界が、時代が、ぼくらを押し返しながら要求しているのはそういうことだという気がする。目覚めかけた夢の外、ちっぽけな小魚には立ち入れない水域があり、スイミーの真似事をして口をぱくぱくさせる魚群をもういちどただのちっぽけな小魚に戻そうとするのは鯨や鮫だけではなくて、海流や潮位もまたぼくらに厳しい。ぼくらの中にさえ理想と打算とが入り混じり、展望と言い訳がめまぐるしく入れ替わって、あのとき大きな魚を追い払ったような美しい影を作るのはもう格段に難しくなった。
ぼくは思う。追い払った大きな魚それ自体が影だったのではないか。
追い払った大きな魚は、ぼくらの影だったのではないか。
大きな魚にも正義や必要があったとして、それはぼくらの影のなかに、もうすでに含まれていたのではないか。
あきらめてはいけないと思う。鮫や鯨を追い払うことも、流れや潮に立ち向かうことも、そして自分自身の影をよく見つめていることも、あきらめてはいけないと思う。大きなものはいつだってきみを飲み込むし、大きなものをかたちづくる原子は、つながりを探して迷い込み、かえってatomizeされたきみやぼくであったりするわけだけど、ピノキオがあのモンストロのお腹のなかから帰ってこれたように、何が人間をかたちづくっているのかを忘れなければ、きっと大丈夫なのよさ。
ところで、田代君に連れて行ってもらったコザの街並みと、幼稚園児後ろ姿を入れた構図がニールヤングの『渚にて』にそっくりだったあの浜辺の景色はいまでもよく夢に出てくる。たぶん一生忘れないだろう。おおきな台風、みんなが無事だといい。