2020年04月30日

明けない夜のために、すべての小さい場所のために


あたらしいアルバムを作りました。名前を『うたの死なない日』といいます。

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これまでの作品の中でいちばん自分から遠いところにある気がしています。何を思って書いたのかも、何を伝えたかったのかも、よく分かりません。ただ目眩のようなものを集めたら、こういう形になったのだと思います。


大学生の頃好きだった小説の描写に「ドアノブを握った瞬間に、そこから吐き気が流れ込んでくる」というのがありました。それと同じような感覚と言えばいいのでしょうか(色合いはずいぶん違いますが)目にした景色、感じた空気、聞こえた声、それらがすべて目眩となり、震えとなり、色となって降り掛かってくる−

そういうものを集めたら、こういう形になったのだと思います。


かつてぼくは、CDのレビューを書いて生計を立てていました。ツアーになればあちこちの街を飛び回り、毎日のようにステージに立っていました。「うた」を扱う職業人としてのアイデンティティに支えられて何年も(なんとか)暮らしてきましたが、いまはそういうフィールドから遠ざかってしまっています。一週間の中で、ギターを握らない日のほうが多くなりました。アンダーグラウンドの最前線にも、要注目のムーヴメントにも、ずいぶん疎くなりました。


それでも見えたということは、きっとほんとうだということです。口ずさんでみたら、はっきりと見えました。
ここには、うたが必要だということ。
うたは自粛の壁を越え、夜の裂け目を縫い、糾弾する叫びを掻き消して、誰かのところまで届くということ。



(いまから、すこし訳の分からないことを書きます。あらかじめお詫びしておきます)

自分の書いた曲に追いつかれたと感じる瞬間があります。
今作に含めた「サイダー」「風」の二曲はずいぶん前のものですが、プレーヤーを再生して聴こえてくる歌詞に、まるで後ろから駆けてきた何かに煽られ、肩をつかまれ、追い抜かれてしまったような感覚を覚えます。それが一体どういうことなのか、やっぱりうまく言えないのですが。

富山に帰ってから書いた曲たちも、既に自分を置いてどこかへ駆けて行ってしまいました。たぶん、それらがあった場所、目眩が生まれた根元へ還っていったのかもしれません。何のためにぼくのところへやってきたのか、ぼくに何を求めているのか、書き始めてからマスタリングが終わるまで、結局よく分かりませんでした。でも−

(訳の分からない話はここで終わり。このあと、大事なことを書きます。)




メンバー(カラス・クインテットという名前をつけました)と一緒に、時間をかけて作曲し、録音し、だんだん作品の輪郭が浮かび上がってくるにつれて、明らかになってきたことがあります。
それは、これらの小さく、いびつなうたでさえも、何かの役に立ちうるということです。

この作品は、OTOTOYによる企画 ”Save Our Place”の一環としてリリースされます。売り上げは全額、UrBANGUILDとK.Dハポンの支援に充てられます。京都と名古屋、ふたつの街で、それぞれの街特有の「けはい」を生み出し続けたハコを守るために、(それがほんのささやかだということは承知しながら)いま、この作品を使いたいと思っています。

https://ototoy.jp/feature/saveourplace/

東日本大震災のとき、ライブハウスは不安な人々に向けて、身を寄せ合う場所を解放しました。ミラーボールの下で思い思いに人々が集まり、音楽を通じて生きる意志と喜びを分かち合いました。しかし、今回は、解放されるはずの場所そのものが、失われようとしています。
わずかな明かりが消えそうなとき、ともしびを持ち寄り、守るのは誰の役割でしょう?

賭けなくてはなりません。

再び集まることを許された日に、帰るべき場所が、昨日と同じような姿でそこにあるように。
弱いものたちが夕暮れることなく、弱いままで、それぞれのブルースを持ち寄って集まれる場所がそこにあるように。
小さいものが、自らの小ささを恥じることなく立っていられる場所がそこにあるように。

私たちが「ありのままでも、そのようにありたい、在りたい私たちのままでも−つまりは、どのようなかたちでも」存在することが許される場所を守る必要があります。ライブハウスやクラブは、そういう場所です。

そして場所とは、私たち一人一人のことに他ありません。



そうだ。最後にもうひとつ。

ぼくは、自分自身の支援しなくてはいけないライブハウスやクラブが、ほんとうはもっともっとたくさんあるということを知っています。
カフェ、バー、ギャラリー、レコードショップや書店…つまりこれまでぼくらの生活と文化を支えてくれてきたありとあらゆる場所に対して、返さなくてはならない恩、果たさなくてはならない義理が山のように積み重なっているということも知っています。この場を借りて自分の非力と薄情さを懺悔させてください。

そして(そんな作り手のちっぽけさにもかかわらず)もしこの作品を聴いて、あなたに何か感じるところがあるなら、どうかあなたの街の小さな場所にも支援をしていただけないでしょうか。少しずつでいいのだと思います。長い目で、という点が大切なのだと思います。この長い夜を誰も欠けることなく越えていけるように、皆でゆっくりと歩きましょう。心からのお願いです。







posted by youcan at 20:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする