2020年05月23日

『うたの死なない日』雑記(7)サイダー

サイダー

夏枯れの嘘 八月 赤い花 いま風に散った
黄昏るる雲 軽く睫毛を伏せて 話し始めた

サイダー飲んだ

にわか雨が上がったその後で 誰か
気づいてしまうんだろう
いま 気づいてしまうんだろう

おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ
そのなかに白いのが一話混じっている

忘れ物を きみに届けた後で 何がぼくに残るんだろう
何がいま ぼくに残るんだろう

サイダー飲んだ

18年ほど前に書いた、このアルバムでは一番古い曲です。これを初めて演奏したときのことは、我ながら驚くほどよく覚えています。まだ旧店舗(今のネガポジがあるところ)にあった西院ウーララでのライブに出演する前夜に書いたこと。その3日ほど前に大阪梅田のハードレインのイベントで共演した京都のバンドがドラムのスティックとかチューニングキーとかを忘れていったので、翌日それを届けに北野白梅町まで行ったこと(当時ぼくは左京区に住んでいて、立命館大学周辺にはほとんど行ったことがなかったので、烏丸通を超えるときなぜか異様に緊張したのでした)。当時ルーリードの自伝を夢中で読んでいて、ヴェルヴェッツの“Waiting for the man”の真似みたいなリリカルな物語を書きたかったのに、結局は出町柳の橋の上から見た景色の話になってしまたこと。演奏の直後に飛んできた、たまたま飲みにきていたローリングストーンズが大好きなおじさんの野次。


お前は声が小さい、それはどうかと思う、けどお前は心で歌っとる、だからビールおごったるわ。



ただ、肝心のサビのフレーズ(この部分をよくモノマネされます)をどうやって思いついたのか、タイトルをどうしてこのようにしたのか、そのことだけが思い出せないのです。くるりの「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったけな」との類似について、半ば揶揄めいた指摘を受けることもありました。この点に関しては、パクりと言われればそうだろうと思います。けれど、一種の反転として考えると、とても重要な点が浮かび上がってきます。今回、曲に関するぼくの考察は、ここに収斂します。



いまだからこそロスト・ジェネレーションは就職難のあおりをもろに受けた氷河期世代として語られますが、当時の感覚を辿れば、あの頃、喪失(ロスト)はすでにはぼくら自身の中にあったようにも思えます。ほとんどの若者にとって政府や社会から何かを引き出すという意識は希薄で、大多数の関心事は「漠然とすり減っていく世界のなかで、自分はどうやって生きるのか」ということ、もう少し言えば20代 −揮発性の青春、それが終われば自分がどんな人間になるのか想像もつかなくなる、その手前に残された「自分自身を設計できる領域」− を、どうやって引き伸ばすか、あるいはその終わりに向かってどう激しく生きていくかということでした。

だからこそあのヘンテコなターム「自分探し」が病的なほどに流行ったのでしょうし、テレビでは「タイは、若いうちに行け」みたいなCMがばんばん流れ、大学の学食にインド旅行中に行方不明になった若者の所在を尋ねる写真が貼られるまでになって、つまり、誰もがなんとなく、「生きる」ということの本質を見つめるチャンスは日常から切り離されたところにしか残されていないのだと気づいていて、いまそいつを探さなければやがて一切をロストしてしまう、という認識の上に日々を送っていたのだと思います。(日本以外のアジアに行けば、そのヒントが見つかる可能性が高いという考えが一つの神話であったことも、きっとこの時代の特徴なのでしょう)



炭酸飲料は、その透明感、泡がぷちぷちと爆ぜていく美しさ、甘みと喉の痛み、そして最後には気の抜けたものになるだろうという無常観など、「若さ」が自らの現状を託すのにうってつけなモチーフです。当時自分がどんな風に感じていたのか、もう内部に細かく踏み込んで調べる術はないのですが、とにかくこういう類の曲は、いまのぼくにはたぶんもう書けません。それは感受性の問題であると同時に、世界が自分にどのような役割を要求しているかを巡っての、ある種の布置についての問題だからです。しかし、書かれてからたとえ何十年経ようとも、あの川のほとりでサイダーを飲んだ、その時の情緒が消えることはありません。それは誰がこのうたを歌ったかというちっぽけな視点を超えて、この世に空と風と川とサイダーがある限り、共有できる人にはできる感覚として残り続けるはずです。



この曲は、はっきりと示されないままぼんやりと形作られていく思想や、うまく描写することが難しい気配など、日常の中に散りばめられた、言い表せない(限りなく小さな領域)のアンセムです (もとい、アンセムの一つです。アンセムは人の数だけあっていいと思います)。そして『うたの死なない日』とはおそらく、このような、ことばにできない小さな領域たちの中において、時代や空気に押し流されることなく自分の足場に立ち続けた人々が、再び旗を掲げることのできる日のことです。



ぼくは凡庸な人間です。今まで一度たりとも「これが代表作」と言えるアルバムを作れないまま、ぼんやりと活動を続けてきました。自分をどう見せたいかについても自問することがなく、誰に届けたいかイメージする力もありませんでした。ただ、自分と自分を取り巻く薄い外皮の境目に起こる火花だけを集めて何十もの曲を書き、集めてはアルバムに纏めて来ただけです。そのうちまた長い沈黙に入るかもしれません。もはや、自分が創作をしたいのか、自分が求められているかどうかも、よくわからないのです。けれど、これまで自分の中に突然降ってきた「うまく言えないけれど、なんだか忘れがたい、言わずにはいられないことたち」については、77億人のうち、ほんの絵筆の毛先くらいの人々には伝わるのではないかと思います。そして、文化とはそのような「うまく言えないけれど、伝わるもしれない」ことに賭ける営みの集合体であって、この賭け自体をやめてしまう事が文明の死を意味するのだということだけは、凡庸な人間にもはっきり見えるのです。


「おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ、そのなかに白いのが一話混じっている」


白いカラスは、王様を探しています。正直で心優しく、そして名前に「キング」と冠されたルンペンを王に迎えなくてはならないと思っています。たぶん理想の王は、永遠に見つからないでしょう。ただ、それでも飛ばなくてはならないと信じて飛ぶことこそが、いま必要なのではないかと思います。フィクションはそのような想像力の冒険を可能にする場所ですし、想像力がない人間は歩くこともできません。
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2020年05月20日

『うたの死なない日』雑記(6)うたの死なない日

うたの死なない日

今日はうたの死なない日
夏草 西陽の丘に 年老いた塔の物見が 焼け残ることば拾って

朽ちた旗を翻し あなたは愛せるだろうか
今より確かな大地があなたを支えるだろうか

夕立の洗い流した慍りがそのまま長い河に変わって
街角切り取る画面の向こうにすべてを運び去った
後は

花の散らない日
風は掠れたまま もう誰一人ここから追い出されず
今日はうたの死なない日 暮れゆく世界のどこかで
年老いた塔の物見が 空を見上げ

懺悔から始めます。このタイトルはオマージュと剽窃の境界線を少し飛び越えている気がします。ロバート・ニュートン・ペックというアメリカの作家が書いた『豚の死なない日』というジュヴナイル小説があまりに素晴らしくて、いつかこの作品に影響された作品を書いてやろうと思っていたのですが、歳月だけを無駄に重ねた挙句、結局はひらがな一文字変えただけのものになりました。


直接的にこの曲に向けての引き金を引いたのは、砺波平野の散居村展望台から見た景色です。もちろんその景観は息を呑むほどに見事だったのですが、さらに衝撃だったのは、案内してくださった方から耳にしたお話でした。展望台の眼下に広がる水田のうち相当な割合が、すでに個別農家の持ち物ではなく農業法人の管轄にあるというのです。高齢化が進み、余所に経営を委託しなければ水田を保つことさえ難しい現実が、目に見える景色の下にもう溢れ出さんばかりに潜んでいるのを思い知らされました。そもそも散村とは家と家の距離を離すことで、水田と家の距離を近づけるための工夫であったはずなのに、もはやその水田を引き受けるべき家がなくなろうとしている。静かに流れていると思っていた農村の時間は、音を立てぬまま物凄いスピードでいろいろなものを押し流していたのです。


この感情が、怒りだと分かるまでには相当な時間が必要でした。そして今でさえ、何に怒っているのかと問われれば答えに窮します。べつに何らかの対象に向けて怒っているわけではないのです。あえていえば「遣る瀬無い」という感情がもっと適切なのかも、とも思います。古典でよく言われるところの「無常感」とはこういうものなのか、という気もします。ですが、いくつかの候補を行きつ戻りつした末に、僕はやはり「怒り」に還ってきます。あの話を聞いた後にもう一度、眩いばかりの緑に覆われたパノラマを俯瞰しながら、夏草の斜面を一目散に駆けていく小さな兄妹の背中を目で追っていく−そのときの感情を言い表すとすれば、消去法であっても「怒り」以外にはないと言わざるを得ません。人間の感情の暴発とは解せぬものです。


ただ、もう少しゆっくり見ていくと、その怒りが(誤解を恐れずいうなら)腐敗に対する怒りに、どこか似ていると言うことが分かってきます。何にも怒ってはないけれど、何かに怒っている。それは、冷蔵庫で牛乳を傷ませた時の気持ちとよく似た質感をもっています。ということは、つまり、ある種の発展と腐敗は同類であるということでしょうか。人々が懐かしい景色を置き去りにしたまま大地を去らざるを得ないという時代の流れは、何かを傷ませているのでしょうか。


できあがったものをあらためて聴いてみると、その懐古主義具合に驚きます(実は、この曲はまだ、バンドではステージの上で一度も演奏していません)。この曲がやりたいことは、まるっきり「いつかどこかで聴いた、誰かが歌っていたような、でも結局は実在しない歌」です。グランジがメジャーシーンへ押しあがっていくことに反発するためだけにアメリカ各地で散発的な盛り上がりを見せた、全然キャッチーじゃないオルタナティヴ・バンドたちのアルバム一曲目みたいな曲です。ルーリードが匿名で書いていたという安っぽいB級アメリカン・ポップスを、想像だけでアップデートさせようとした曲です。ジョーン・バエズのフォークソングにある涼やかさを夢見ながら、すぐに気恥ずかしくなって背景をわざとぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった曲です。浅川マキのように魂と歌が心中する景色に憧れながら、結局はあんな意気地もなくただ背中をすくめて立ち去るしかなかった−そういう虚脱と徒労を背に負いながら、それでも「怒り」と対峙し続けている曲です。

この曲は、置いていかれることも腐敗することも、追い出されることも、等しく拒絶します。だから、「うたの死なない日」なのでしょう。


簡単なラフスケッチを聴かせた後でアレンジと録音に対する漠然と抱えたイメージを話したとき、即座にrickyは「めっちゃ下手に叩こう」、岩橋くんは「俺、薬指だけで弾くわ」と言いました。吉岡くんはデタラメに弾いたフィードバックギターに謎のエフェクトをかけ、おざわさんは淡々とユニゾンしたりシンプルに三度上を重ねたりして、OKテイクはあれよあれよという間に完成しました。同じコードのままノイジーな演奏が延々と垂れ流されるようなイントロを録音していたのですが、ミックスの時点で縮められてしまいました。でも、やっぱりこのくらいが適当な気がします。
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2020年05月09日

『うたの死なない日』雑記(5)しずく

しずく

わたしが生まれてきたのは


物心ついてからずっと、ひとに身近な動物たちが、どうしてあんなにもひとを信頼することができるのだろう、という不思議を抱えています。自分とは違うこの二本足の生き物に対して、後ろに乗せたり、紐を預けて一緒に散歩したり、好奇心いっぱいで集まってきたり、撫でてほしいとせがんだりするのは、なぜだろうと思い続けています。

そんなふうに選別され、交雑されてきた歴史的な結果なのかもしれませんし、生まれた時から世話をしてくれる人間を安心な生き物と知った学習の成果なのかもしれませんが、ぼくを驚嘆させるもっと根本的な部分 – 彼らが生まれながらに「信じる」という行為の意味を根本的に知っているのはなぜか、という点に関して、まだ納得できる答えに出会っていません。

「しずく」というのは、パートナーの実家の犬の名前です。昨年他界したのですが、たまにしか遊びに来ないぼくのことを「お腹を撫でる係」と認識しており、前脚で「違う、そこじゃなくて、こっち」と指示を出してくる犬でした。果物が大好きで、散歩が大好きで、水が大好きで、小さい犬が苦手な犬でした。人間が食事をするときにはテーブルの下に潜り込んでだれかの足に体をくっつけ、誰かが夜更かししていると自分も灯りの下に出てきてフロアに寝そべり、玄関先に並べたスリッパを発見すると(くわえやすいのか)すぐに何処かへ持ち出しては叱られていました。


「わたしが生まれてきたのは」の後に続く部分について、文字にはしないほうがいいような気がして、ブックレットには載せていません。



座右の銘を聞かれたとき、いつも『星の王子さま』のきつねのことばを挙げるようにしています。実際には、きつねのセリフは至言ばかりなので、そのとき思い浮かんだものを答えます。やはり「かんじんなことは、目に見えないんだよ」が一番多い気がしますが、もしかすると自分の生き方をもっと大きく左右したのは、「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」というひと言かもしれません。サン=テグジュペリは飛行機乗りで、空から、飛行機から、砂漠から、多くのことを学んだひとでした。加えて「移動する」ことを本質とした生業−つまり時間をかけて二つの空間を行き来するという行為、大地から離れた時間の流れに自分を宙吊りにして、間に合うことと間に合わないことの狭間に身を起き続けるという生き方そのものからも、多くの気づきを得たのではないかと思います。

動物たちは、時間泥棒に盗まれるものを持っていません。灰色の男たちに狙われません。そのかわりに彼らは「あなたを信じます」という動作に、とても時間をかけているように思えます。善意について、ことばを介さずに教えてくれる存在がいるということ、自分たちのために時間をむだにしてくれる存在がいるということ、そのありがたみについて最近よく考えます。



このアルバムを作る前から、のんこに詩を読んでもらいたいということをぼんやり思っていたものの、肝心の内容が決まらずに、またも前日に書き上げたものを送るという無茶なスケジュールでの録音でした。テイクは一発OKで、集まったメンバーから思わず拍手が出ていました。
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2020年05月06日

『うたの死なない日』雑記(4)風



放り出された夏の青さ 雲の切れ間で小さく光る
悲しい気分だけを集め 冷えたグラスにそっと注いで
いま風が吹いたら全て忘れよう 誰かを愛したいだろう
木枯らしが吹くまで笑い続けて きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー ここで待ってるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

砂に描いた地図をなぞろう 表通りに飛び出したいんだ
たとえ波にさらわれ たとえすぐに消えたって 喩えようもないたった一つの時間
いま風が吹いたら何も言わずに誰かを愛したいだけ
こっちを向いたら笑ってみせてよ きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー ここで待ってるよ


池永正二さん(あらかじめ決められた恋人たちへ)とのユニット、シグナレスのファーストアルバムにも収録したものです。
高校生の友人たちが学校を卒業するにあたって何か贈ろうと思い、再録したバージョンをここに収めました。

モチーフは鎌倉です。アルバム収録曲の中でなんとなくこの曲だけ太平洋岸ぽい、と思っていただけると嬉しい・・・分かりっこないですよね。本当はトレイシー・ソーンの『遠い渚』に収録されている曲たちのようにしたかったのですが、ぼくが歌うととどうしても湿度が上がって(かつ温度が下がって)しまいます。「いま風が吹いたら」と歌いながら、実際に風はずっと吹いています。たぶん、そういうことです。



ヘッセの『シッダールタ』という小説の中で一番好きなのは、知恵と意思にあふれ、生まれながらに悟りに向かって生きていく資格を与えられたような主人公が、自分の息子を育てる場面になって煩悩に追いつかれるという箇所です。振り回され、心配し、伝わらず、挙げ句の果てに逃げられてしまうという展開を、ある種の必然として、突き放した筆致で書いている。冒頭以降ずっとクールなものとして描かれ続けてきた主人公が、急にただの頼りなく情けない親父になるこの部分は、読んでいて楽しいものではありませんが、大サビへ進むためのブリッジであることは間違いありません。ここを通ったおかげでヘッセは、自己にコミットするということはどういうことなのか、愛の美しさとは、醜さとはどういうものであるか、それらを「知る」こととは何であるか、といった問いへの回答に、小説でしか描けないやり方で到達しているように思えるのです。


うたは、音楽であると同時に文学でもあり、芸術であると同時に芸能でもあり、表現であると同時に生活でもあります。それらすべての狭間には「うた」によってしか指し示すことのできない領域というものが確かにあって、この曲はその一部分へだいぶ近づいているのではないか・・・と思っているのですが、まあ、きっとただの自惚れです。


レコーディングは、カラス・クインテットが全員参加しています。アレンジからミックスに到るまで「何も言わずに」完成したのがちょっとした自慢です。rickyが最後のサビのリフレインで、急にビートを変えて叩き出したときに「あ、これはうまく行く」と思いました。
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2020年05月05日

『うたの死なない日』雑記(3)ノアの蛙

ノアの蛙

芝生の底に眠る冷たい生き物
朝露に息を潜めて物語の始まりを待つ
夏空は音もなく画面から逃げ去り
青さのかけら 冷たい生き物は雨の夢を見ている 夢を見ている

どこまで行こう

たとえ愛より強い掟がきみを 洗い流したそのあとで
後ろ足を強く蹴ってきみを探すだろう

数え切れぬほどの音符を飲み込み響く方舟
命の重みより美しいメロディは終わりも知らず

指先には海の思い出

やがて知恵の実たちが新しい庭 爆ぜる時は喉を鳴らして
声の枯れる痛みのまま きみを探すだろう
どこまで行こう


雨蛙や殿様蛙は、眺めていても、その鳴き声を聞いていても、飽きません。春の夜、田んぼに鳴り響く彼らの大合唱に目を閉じてみるのが、ここ近年で一番好きな音楽体験かもしれないです。夏の朝、グラウンドの芝生の中で空を見上げているやつがいて、目を細めているような、恋うているようなその表情がとても印象的でした。その後は激しい雷雨になったように記憶しています。


YOUTUBEで誰かのお話をでたらめに再生しながら職場に向かうことが多いのですが、ランダムに入ってくることばの中にハッとさせられることがしばしばあります。あるとき同志社大学の小原克博先生の授業の一場面が流れてきて、ぼんやり聞いていたところ、動物と聖書のお話になりました。『創世記』において描かれる天地創造の順序−たとえば3日目に草と果樹、5日目に魚と鳥、6日目に地の獣と家畜、そして人間という順番で「創造された」という記載−は、実は当時における最先端の科学の知見を反映している。つまり、観察の結果、生物の発生にある種の秩序があるということが「発見された」成果なのだ−これを聞いたとき、ひとりで運転しながら思わず「うわーっ」と叫んでしまいました。それ以来、蛙が5日目に生まれたぼくらの先輩なのか、同じく6日目に生まれたのか、ちょっと気になっています。(彼らの飄々とした面持ちを見ていると、地上に初めて上がったときのことを覚えているんじゃないかという気もしてきます)




ベーシックテイクはTOKEI RECORDSのコンピレーションに参加したときのものをもとにしています(一部差し替えたんだったかな)、ギターはアコースティックギターとエレキギターの二種類を試して、エレキギターのテイクを採用しました。もう一本の歪んだギターは吉岡くん。これが全編を通じて最後にレコーディングされたパートとなりました。こういう荒涼とした感じの表現は、自分にとってあたらしい引き出しを開けたように感じています。続けているといろんなことが変わっていく、面白いものです。





アルチュール・ランボーの「大洪水後」という詩からは、理想を掲げた再出発が、結局は破局の前の焼き直しに終わるという示唆を読み取ることができます(と、随分前に授業で聞きました。ほんとうのところは分かりません。ランボーは難しい…)。

専門家会議の提唱する「新しい生活様式」には、いま生きている生活世界から僕ら自身を引き剥がすという要素も多分に含まれています。そのような「方舟」にいつまでも潜み続けられる人は少ないでしょう。いま、みんなでどうやって生き延びるかを考え続けることは、みんなの(当然、政府や自治体も含めての)問題です。同時に、大洪水の後でどんな世界が立ち現れようとしているのか、目を凝らしておかなくてはならない−とても難しいことですが。多くのものが洗い流された後、大地の上に「ぼくらが(政府や自治体や議員や大企業ではなく)」もう一度どんな社会を望むのか、いまこそ必死で考え、話し、準備をしていかなくてはならないと思います。


『大洪水』の記憶もようやく落着いた頃
一匹の兎が 岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め
蜘蛛の網を透かして 虹の橋にお祈りをあげた
ああ 人目を避けた数々の宝石 ― はや眼ある様々の花
不潔な大道には肉屋の店々がそそりたち 人々は とりどりな版画の面をみるような
遥か高く けじめを附けて重なった海を指して
めいめいの小舟を曳いたのだ (小林秀雄 訳)





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2020年05月04日

『うたの死なない日』雑記(2)グッド・バイ

グッド・バイ

季節の大きな海よ 誰もが漕ぎ出して行く
桟橋のこちら側で 手を振る年老いた春
忘れかけた傷たち浜辺に揺れて 
お別れが世界を染める
泳ぎ疲れた昨夜に まどろむ夢があれば
怒りに燃える明日に崩れぬ足場があれば
帆を開けよ 潮風 ポケットには狂いかけた磁石一つ


僕の中ではどうやら、春の海とは「ひねもすのたり(蕪村)」どころか、騒々しいものであるという思い込みが幅を利かせているようなのです。北陸の海は波と波の感覚が短いのか、いつ訪れても吠えるような音に出くわす気がします。
高岡という街に住んでいた頃、追い詰められたときには海を見に行き、あの波の音の中でいろんなことがどうでも良くなるのを待ちました。

だから、静かな海に出会うと、かえって心がざわつきます。
高岡の隣、新湊という街には潟があります。正確には「あった」というべきで、もう埋め立てられてしまったのですが、岸壁に囲まれて外海から隔てられた部分は残っており、右岸と左岸を結ぶ県営の渡し船が定期的に行き来する船着場は、寂れた待合所の佇まいも含めてとても静かな印象に満ちています。
感情を攪拌したいときには、ここにやって来ることにしていました。

春の歌、タイトルは太宰治からの拝借なのですが、中身はむしろ「グッド・バイ」ではなくて「津軽」に近い気がします。

“私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ。命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では失敬”



録音は、アコースティックギターとベースを一発録りし、さらに谷くんのマンドリンを重ねたものです。その場で「こんな感じ?」「いや、ここはトリルを効かせたフレーズを・・・」みたいなやり取りをしながら録っていきました。レコーディング当日まで曲を書き換えていたので、ちゃんとしたデモを岩橋くんに聴かせることができず、彼も?を頭に浮かべながら弾き始めたのですが、さすが長い付き合い、きっちりまとめてくれました。吉岡くんに出したミックスのリクエストも「彼岸チックな感じで」という乱暴なもの。つくづく人に恵まれています。(甘えてはいけないと知っているんです・・・ほんとうは)
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2020年05月03日

『うたの死なない日』雑記(1)烏  

飛び立って あとは濁さずに
坂道を 鮮やかに渡って
廃車置場の向こうの空に 思い出たちがはためいた頃 
ゴールラインに滲む夕暮れを 撃ち落としに行く

薄紅の遠い 遠い予感よ 
稲穂の海 黒い狙撃手は
帰る寝ぐらも忘れただろうか 羊雲たちの笑うその傍ら
鉄塔の上 息を潜めていた 瞬きもせずに

聴こえるか 鳴り響く世界が
鼓動だけを振り払おうとしてみても
失われずにその高さのまま
独りぼっちで
燃える翼抱いて 飛び続けて行けよ


『うたの死なない日」を作るにあたって集まってくれたメンバーに「カラス・クインテット」という名前をつけたのは、最初に録ったのがこの曲だったからという単純な理由でした。


集落のはずれに農業用水が流れていて、道路との境にある柵によくカラスが停まっています。その先には田んぼが国道を越えてずっと広がっている、ところどころに鉄塔が立っていて、送電線がそれらを繋ぐように伸びているー
そういう景色が出発点です。


カレル・チャペッック(“ロボット“ということばを発明した作家です)が書いた「宿なしルンペンくんの話」という児童文学に、白いカラスが出てきます。カラスは街角で出会ったルンペンの名前が「マーク・キング」であることに驚き、彼を文字通り自分たちの王様に推挙しようとする(マークは善意に溢れる正直者で、「君は鳥の中の白いカラスだ」と警察官に賞賛された経歴があります)のですが、マークはパンの切れ端を探して何処かへ行ってしまいます。それ以来白いカラスは配下の黒いカラス命じてマークを捜させ、だからカラスは「マーク、マーク」と鳴きながら空を飛ぶんだよ、というお話。


1930年代のチェコで書かれたこの話の背後には、ナチスが主張する「生産性」への抵抗が隠れていると、どこかで読みました。役立たず、はみ出し者、何を考えているのか分からず、世間からはゴミをついばんで生きていると思われていても、果たして本当に無価値であるといえるのだろうか ― そういえば、旧約聖書でノアが洪水のあと最初に放ったカラスは、陸地を見つけることもできずに方舟から出たり入ったりして、いったい何のために登場したのかよく分からない書かれようですし、ルカ伝にはもっとあけすけに「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」と、いわば役立たずの象徴のようにされています。そのようなカラスにさえも神の愛は分け隔てがないのだ、と。ぼくはキリスト者ではないのでこの一節を真に深く解釈することは出来ませんが、人間の社会には古くから「無益なもの、暗いもの」に対する嫌悪が根深くあったと同時に、それらを人間の本質的な一側面として受容し、共に生きようとするヒューマニズムもまた同じくらい昔に遡れる、ということくらいは読み取ってもバチは当たらないだろうと思います。


ともあれ、あの濡羽色のうつくしい鳥が太陽の位置を知っており、親切な人間に返礼を行い、仲間に危機を伝えあったり、はては死を弔うような(実際は違うにせよ)風習さえあったりするのだという話などがぼくの中に積もり積もって、カラスをこの曲の主人公として選ばせたのでしょう。京都に住んでいた頃も、東京で働いていたときも、明け方まで飲んでふらふらになりながら帰る駅前にはいつもカラスがいました。京阪丸太町駅の階段に並んで停まっていたあいつは、毎朝となりに腰掛けるぼくの顔を見て何を思っていたのでしょうか。



ベーシックテイクではアコースティックギター、ベース、ドラムを一斉に録り、ギターはその後差し替えました。岩橋のベースとrickyのドラムは三度目のテイクくらいでOKとなったように覚えています。低いところを歌っているコーラスは自分の声、ユニゾンはおざわさんです。典型的なサッド・コア調の曲で、吉岡くんのミックスが一番出したい部分をすっと出してくれています。つまりはこれがぼくの基調低音だと言えるかもしれません。
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