サイダー
夏枯れの嘘 八月 赤い花 いま風に散った
黄昏るる雲 軽く睫毛を伏せて 話し始めた
サイダー飲んだ
にわか雨が上がったその後で 誰か
気づいてしまうんだろう
いま 気づいてしまうんだろう
おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ
そのなかに白いのが一話混じっている
忘れ物を きみに届けた後で 何がぼくに残るんだろう
何がいま ぼくに残るんだろう
サイダー飲んだ
18年ほど前に書いた、このアルバムでは一番古い曲です。これを初めて演奏したときのことは、我ながら驚くほどよく覚えています。まだ旧店舗(今のネガポジがあるところ)にあった西院ウーララでのライブに出演する前夜に書いたこと。その3日ほど前に大阪梅田のハードレインのイベントで共演した京都のバンドがドラムのスティックとかチューニングキーとかを忘れていったので、翌日それを届けに北野白梅町まで行ったこと(当時ぼくは左京区に住んでいて、立命館大学周辺にはほとんど行ったことがなかったので、烏丸通を超えるときなぜか異様に緊張したのでした)。当時ルーリードの自伝を夢中で読んでいて、ヴェルヴェッツの“Waiting for the man”の真似みたいなリリカルな物語を書きたかったのに、結局は出町柳の橋の上から見た景色の話になってしまたこと。演奏の直後に飛んできた、たまたま飲みにきていたローリングストーンズが大好きなおじさんの野次。
お前は声が小さい、それはどうかと思う、けどお前は心で歌っとる、だからビールおごったるわ。
ただ、肝心のサビのフレーズ(この部分をよくモノマネされます)をどうやって思いついたのか、タイトルをどうしてこのようにしたのか、そのことだけが思い出せないのです。くるりの「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったけな」との類似について、半ば揶揄めいた指摘を受けることもありました。この点に関しては、パクりと言われればそうだろうと思います。けれど、一種の反転として考えると、とても重要な点が浮かび上がってきます。今回、曲に関するぼくの考察は、ここに収斂します。
いまだからこそロスト・ジェネレーションは就職難のあおりをもろに受けた氷河期世代として語られますが、当時の感覚を辿れば、あの頃、喪失(ロスト)はすでにはぼくら自身の中にあったようにも思えます。ほとんどの若者にとって政府や社会から何かを引き出すという意識は希薄で、大多数の関心事は「漠然とすり減っていく世界のなかで、自分はどうやって生きるのか」ということ、もう少し言えば20代 −揮発性の青春、それが終われば自分がどんな人間になるのか想像もつかなくなる、その手前に残された「自分自身を設計できる領域」− を、どうやって引き伸ばすか、あるいはその終わりに向かってどう激しく生きていくかということでした。
だからこそあのヘンテコなターム「自分探し」が病的なほどに流行ったのでしょうし、テレビでは「タイは、若いうちに行け」みたいなCMがばんばん流れ、大学の学食にインド旅行中に行方不明になった若者の所在を尋ねる写真が貼られるまでになって、つまり、誰もがなんとなく、「生きる」ということの本質を見つめるチャンスは日常から切り離されたところにしか残されていないのだと気づいていて、いまそいつを探さなければやがて一切をロストしてしまう、という認識の上に日々を送っていたのだと思います。(日本以外のアジアに行けば、そのヒントが見つかる可能性が高いという考えが一つの神話であったことも、きっとこの時代の特徴なのでしょう)
炭酸飲料は、その透明感、泡がぷちぷちと爆ぜていく美しさ、甘みと喉の痛み、そして最後には気の抜けたものになるだろうという無常観など、「若さ」が自らの現状を託すのにうってつけなモチーフです。当時自分がどんな風に感じていたのか、もう内部に細かく踏み込んで調べる術はないのですが、とにかくこういう類の曲は、いまのぼくにはたぶんもう書けません。それは感受性の問題であると同時に、世界が自分にどのような役割を要求しているかを巡っての、ある種の布置についての問題だからです。しかし、書かれてからたとえ何十年経ようとも、あの川のほとりでサイダーを飲んだ、その時の情緒が消えることはありません。それは誰がこのうたを歌ったかというちっぽけな視点を超えて、この世に空と風と川とサイダーがある限り、共有できる人にはできる感覚として残り続けるはずです。
この曲は、はっきりと示されないままぼんやりと形作られていく思想や、うまく描写することが難しい気配など、日常の中に散りばめられた、言い表せない(限りなく小さな領域)のアンセムです (もとい、アンセムの一つです。アンセムは人の数だけあっていいと思います)。そして『うたの死なない日』とはおそらく、このような、ことばにできない小さな領域たちの中において、時代や空気に押し流されることなく自分の足場に立ち続けた人々が、再び旗を掲げることのできる日のことです。
ぼくは凡庸な人間です。今まで一度たりとも「これが代表作」と言えるアルバムを作れないまま、ぼんやりと活動を続けてきました。自分をどう見せたいかについても自問することがなく、誰に届けたいかイメージする力もありませんでした。ただ、自分と自分を取り巻く薄い外皮の境目に起こる火花だけを集めて何十もの曲を書き、集めてはアルバムに纏めて来ただけです。そのうちまた長い沈黙に入るかもしれません。もはや、自分が創作をしたいのか、自分が求められているかどうかも、よくわからないのです。けれど、これまで自分の中に突然降ってきた「うまく言えないけれど、なんだか忘れがたい、言わずにはいられないことたち」については、77億人のうち、ほんの絵筆の毛先くらいの人々には伝わるのではないかと思います。そして、文化とはそのような「うまく言えないけれど、伝わるもしれない」ことに賭ける営みの集合体であって、この賭け自体をやめてしまう事が文明の死を意味するのだということだけは、凡庸な人間にもはっきり見えるのです。
「おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ、そのなかに白いのが一話混じっている」
白いカラスは、王様を探しています。正直で心優しく、そして名前に「キング」と冠されたルンペンを王に迎えなくてはならないと思っています。たぶん理想の王は、永遠に見つからないでしょう。ただ、それでも飛ばなくてはならないと信じて飛ぶことこそが、いま必要なのではないかと思います。フィクションはそのような想像力の冒険を可能にする場所ですし、想像力がない人間は歩くこともできません。