2020年08月22日

デスペラードアヴェニューの猫


ねえ君、知っているのかい 
舗道があんなにも眩しく光るのは 恋人たちの足跡 すれ違った影の涙さ
ペダルのきしむ音から すべてを許す物語までが 絡み合う屋根の上で
出鱈目ばかりが酷くきれい

愛の街角と ここは呼ばれてた ずっと前のことさ 誰も覚えてはいないよ

おかえり 意外に早く君は戻ってきたんだね
いまでもこの街の王様は 相変わらず驢馬の耳さ
崩れかけた時計台を守るため 兵隊が みんなを連れていった
ねえ君、笑えるだろう - 時は もうすでに 過ぎていたんだ

熱いまなざしを歌いたいなんてさ
出て行った君には何か見つけられたっていうのかい?

ほら また ゆっくりと近づいてくる夜の帳 大きな黒い翼
闇におびえる獣たちを 鋭い嘴で逃さない
たとえ俺が最後の一匹でも構わないよ ここはこんなに静かだ
ねえ君、もう一度歌わないか - そう いつかの愛の街角で


風はいつも忘れ物をする 黄昏の宝石たちは夢によく似た夢
水のない側溝で輝き それをじっと見ているまなざしがある
ひげよさらば、悲しみよこんにちは 全部一時のことさ
冒険も迷走も 飢えも渇きも すべてこの上にあり
明日になれば思い出し 明後日になればきれいに忘れて
君たちはまたどこかの星へ出かけていく

でも約束しよう 命あらばまた他日
ただし 絶望だけは ありったけ ありったけ置いていくんだ
土産話のひとつやふたつ かならずポッケに入れておくんだ
ここに吹く風は忘れっぽいから もうしつこく追いかけてはこない
君がもう一度あの眠れない夜を越えたら それが新しい始まりさ

ほらこの俺の ぴかぴか光り始めた目に賭けて
山の向こうに沈んでいくあの大粒の宝石に賭けて
約束しよう、約束しよう どんなに乾いた砂漠でも どんな廃墟の町でも 君のポッケにはもう絶望なんて入っていないんだ

 京都で一番好きな通りの名前を挙げろと言われれば、即座に御池通と答えるだろう(白川通も捨てがたいが、より馴染みがあるほうを選ぶと思う)。堀川通との交差点は北東角の歩道が広く取られていて、夕陽がすべすべした石畳に反射するとき、まるで橙色の液体をこぼしたように見える。西へ歩きながら、1分ごとに交差する細い通りの奥行きを確かめ、空を這う電線をたどり、市役所の手前くらいで振り返ると、通りを飲み込むほどの夕暮れが街に降りてきていることがわかる。夕焼けがきれいなのはどこでも同じだとして、太陽がそのまま都市を接収してしまうが如き黄昏を感じられるのは、きっと盆地の底にうずくまっている街ならではなのだと思う。

 で、猫だ。野良猫というやつはどこにでもいる − そうではない。彼らは、きみが必要だと思うところに必ずいる。大学での生活にうまく馴染めず、キャンパスに足を向けられなかった二十歳の頃には、御所のベンチ脇の植え込みに集まってくる猫会議にオブザーバーで参加させてもらっていた。売れないミュージシャンであり続けることに疲れ切っていたあの頃、バイト先のダンボール置き場で時々出くわす白猫が相談相手だった。彼らはひとの話を聴かない、それが自分たちのなすべきことだと知っているからだ。話すときはいつも一方的で、一通り何かを伝えたあとはいつも上の空になり、すぐにどこかへ行ってしまう。ぼくは猫がとくに好きなわけではない。たぶん猫もそうだろう。だから、ときどき会って、お互いに近況を伝え合うくらいがちょうどいいのだと思う。好き勝手なことを互いに口にして、はっとする気づき(あるいは隣のコンビニで買ったカニかま?)を拾い合えたら儲けものだと知っている、そういう関係。いまでも駅前の路地を歩いていると、たまに寄ってくるやつがいる。そういうときはだいたい何かを迷っているときだ。「あいつがな、あの黒縁メガネの冴えないやつだ、あいつがああいう顔をしているときは話を聞いてやれ、運が良ければツナ缶の一つももらえるだろうさ」とかいったメッセージが、連絡網に回っているのかもしれない。


posted by youcan at 22:08| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月09日

太陽の雨



太陽の雨 裏通りを抜けて
辿り着いたのは蝉時雨の時計台

太陽の雨 黄昏は近づき
地図もなく君は帰り道さまよった
夏祭りを待ち つまらない毎日 虚ろな瞳で数え尽くしてた

「すれ違いざま撃ち抜いてほしい」と
そっと呟いてただ遠くを見てた

かすれ切った声と言葉なき歌
崩れゆくこの空を拾い集めても
太陽の雨は乾く間もなく 終わらない偽りの祝祭がアスファルトを染める

大丈夫まだ沈みなんてしないさ 真夜中が来ても君を照らすのさ
太陽の雨 赫い光の雨 
焼き尽くすように街を濡らしてる


 左京から中京までずっと降りていく。白川通を下って今出川との交差点で曲がり、京大の敷地内をショートカットして東大路を仁王門通まで南下、そのあたりまで来ると西陽はずいぶん傾いてきて、空気そのものが琥珀色からくすんだ茜色に変わろうと身震いしはじめている。大和大路、つづいて縄手通へと入って行く。観光客向けに作られた街の顔が、夕闇の中ですっと溶け落ちたように見える瞬間がある。盆地の底、あの重厚で陰鬱な夏と、あらゆるものを浄化するざらついた赤光が重なり合い、波のように世界そのものが洗い流されていく。何のために自転車を漕いでいるのか、どこへ行こうとしていたのか、やがてもうすっかり忘れしまうほどの時間のたゆたい − 実際、ぼくはこういった類の景色をいくつも覚えているけれど、このあと自分がどこへ向かったのか、何をしたのか、そういった諸々については、まったく覚えていない。「太陽の雨」という形容は、そのようにして積み重ねられた印象の束の、さらなる残滓だと思っている。

 アルチュール・ランボーの『言葉の錬金術』には、こんなふうにある。「ついに、幸福だ、理性だ! 俺は空から青さを引っ剥がし、真っ黒にした。俺は、自然の光の黄金の火花となって生きた」。不世出の天才詩人の真意についてはさておき、「空から青さを引き剥がす」そのやりかたについては、なんとなく分かったつもりでいる。太陽の雨、裏通りを抜けて − この歌い出しはすぐに決まった。あの日(というか、あの日々のなかで)それを見たからだ。街の底に色濃く溜まっていく夕闇の予感、いま見えている物事からかりそめの約束を脱臼させて、自分のための意味を見つけ出すこと、これはぼくにとって希望の歌だった。幸福を、新しい理性を、手に入れるために歌わなければいけない歌だった。


 あれから十数年が経つ。富山は(京都とは違った在り方で)山に囲まれた県だ。どこへ行くにもトンネルを潜らなくてはならない。車での移動は必ず薄暗い場面転換を伴うけれど、それはいつもある種の麻痺とセットになっている。天井にオレンジ色の灯りが続く単調な風景を眺めているうちに、心の中でぴりぴりとしていたいろんなことが陳腐化していく。大げさかもしれないが、日常というやつはだいたいそういうものなのだと思う。
 太陽の雨を見なくなってから久しい。何が起きてもだいたいのことを「そういうものさ」と思ってしまうとしたら、それはぼくらがある意味では理性を失っている、そして幸福を削り倒してしまう直前にいるということの症状なのではないかと思う。同じ瞬間が一つとして在り得ないという基本的な事実を忘れて安易な日々の繰り返しに溺れ、立ち止まって耳をすますことや目をこらすことを忘れていくことは、緩慢な死どころかかえって破局を手繰り寄せる道であるだろう。針金を一本、心の裏側に通しておかなくてはならない。黄金の火花を自分の裏側に抱えておかなくてはならない。沁みるような痛みや渇きに怯えて感じることをやめてしまえば、日照りの夏をおろおろ歩くことをやめてしまえば、きみもぼくも歌う根拠を失う。信じられないようなニュースが、スキャンダルそのものとしか言いようのない政治が、あらゆる不正や下世話や欺瞞を陳腐さのなかに溶け込ませて消費するやり方が画面や紙面にどれほど溢れたしたとしても、それぞれの現実において、それぞれのやり方で「空から青さを引き剥がす」練習を欠かしてはいけない。

 大丈夫まだ沈みなんかしない、真夜中が来てもきみを照らす。空からやってくるものは、つねに可能性に向かってひらけていくための無限の道筋だけだ。
posted by youcan at 22:27| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

八月のブルー / August Blue

2005年の夏は眠れない夏だったのをよく覚えている。というより、京都にいた頃は夏になるといつも不眠症気味だった。暑かったのも一因だが、それよりも街が賑やかすぎて、置いてけぼりになるのが怖かったのだと思う。

ときどき過食をした。明け方に近所の空いているファーストフードのお店にいって、適当に何かを詰め込み、そしてまた別の店に向かった。
あの頃、自分にとってのテーマは「不在」だったのだと思う。何者にもなれず、期待もされず、袋小路のなかでだんだん消えていくことを予感していた。それでいて諦めることも、何か他の役割を引き受けることもできない、ただ貧しさと飢えと焦りと憔悴を物質化したような生活が永遠に続くと思っていた(いつかは誰もが歳をとる、ということさえ理解していなかった)。

この「八月のブルー」という曲は、ウィリアム・フォークナーの『八月の光』に引っ張られて名前が付けられた。フォークナーのあの長い文体、複雑な構造、重く晦渋で圧倒的な物語に憧れて、そのようなうたを(自分の小さな声で)歌うにはどうしたらいいか- ちょうどこの頃ベースを弾いてくださっていたラリーさん(mother ship studio)に、「ワンコードでできるだけ長く引っ張る曲をやろう」とアドバイスをいただいた。ぼくのキャリアの中で、ほとんど唯一といっていいほどの「セッションから始まった曲」と記憶している。あの夏の、あの街の盆地特有の暑さ、あのどこへも逃れられない感じが下敷きとなっているような気がして、たぶんこういう曲はもう二度と書けないだろう(ギターの学はこの曲のためにシタールギターを購入してくれた。いま思うと「ゆーきゃん」というやつは、ほとんどそういった恩義の総体にすぎない)。


1945年8月1日から2日にかけて、富山大空襲があった。市街地のほとんどが全焼したという。祖父母はおしゃべりな人で、昔のことをよく話してくれたが、この空襲のことだけはほとんど聞いたことがない(曽祖父が満州で博打めいた事業に手を出し失敗して、這々の体で逃げ帰ってきたことなんかは愉快そうに何度も口にしていたのに)。山の向こうに燃える夜を、彼女がどんな気持ちでみていたのか、うっすらと夢に見ることもある。

戦後ずっと神通川の河川敷で続いてきた8月1日の花火大会も、今年は中止となった。そんなに賑わいもしない寂れた田舎の花火大会だが、ぱらぱらと土手に腰掛けて思い思いに空を見上げる人たちの無邪気な姿が見られないのはとても寂しい。75年という節目で糸がふっと切れてしまったことにも一抹の不安を覚える。なにより、感染者についてのほとんどを自己の責任に振り替えることが当たり前になってきていて、当事者のプライバシーを暴くことから社会的な制裁を課しあったりするところまで、まるで突然に自警団が組織されはじめたような空気には、このところ戸惑いを隠せないでいる。

繰り返すけれど、これは、行き止まりのそのどん突きのど真ん中で足掻いていたひとりのボンクラが、自分ひとり(というか、その状況そのもの)の「今日の」ために書いた曲だった。だからこそ、「今日を」手にできなかった75年前の、あるいはたった今どこかで空を見上げている(もしくは、見上げられないでいる)、自分と同じ友人たちのために、あらためて捧げたいと思う

(facebookより転載)

posted by youcan at 21:37| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする