2008年09月11日

若さについて

今更ではあるけれど、若さは美しさだったことに気付いた。

もちろん、未熟なものが持つゆがんだ暴力、ひとりよがりな身勝手さには辟易することのほうが多いし、自分のなかに体液に塗れた得体の知れないヒズミが存在していることが嫌で仕方なくって、ひたすらに老いたり枯れたりすることを望んでばかりいた十代のころのあの感覚は、いまでも忘れてはいない。

それでも、
ああ若いということはなんと美しいのかと、
近頃思えるようになった。

(ただしこれは、自分をどちら側に分類するかという出発点を棚にあげた無責任な感慨だとも思う。なぜならば僕の青春時代などはとっくに過ぎ去ったし、かといって成熟したおとなからは未だ程遠いのだ。主観的に見ても若さが私の中から失われたのか、失われつつあるのか、まだ残っているのか、自分で自覚できないのがもどかしいのだが、翻って考えると若さは林檎のように一個二個単位で食いつぶされていくのではないし、また年齢を持ち出して一般的な「若さ」について話すのは馬鹿げているだけだ。自分についていま考えるのはやめておく)

ともかくも若さとは人間に備わったあるものなのだから、その価値を知ったということはきっと僕が人間に興味を持てるようになった証なのだろうけれど、もうすこし目を凝らしてゆくと、若さの中にはある種の類型があって、僕にはそれが美なのだと思えてくる。
その類型とは、すなわち生命の影だ。実体が無い、けれど確実にそこに見て取れるなにか。

いつまでも若々しくあることは、全人類の夢のように思える。
医学が、栄養学がそのために生命を補完する研究を重ねている。
服飾が、貴金属が、メイクアップ術が、生命を輝かせる努力を続けている。
でも、生命自体にいくら注射をしても、また生命の周囲をいくら塗り固めても、
生命の影はいつまでたっても捕まえられないのだと思う。

先週の木曜日から、二十代前半のひとたちに混じってたくさんライブをした。
東京、名古屋、京都。
集まってくるお客さんも、演奏者と同世代か、さらにはもっと若いひとが多い気がした。
日曜の京都では、くるり主催の京都音楽博覧会の翌日、宝探しゲームが行われていて、
烏丸通を行き交う男女はふだんより何パーセントか数も多く、動きもアクティブだった。
彼ら彼女らが歌い、喋り、笑い、走るたびに壁に反射し、足元に落としてゆくその影を、
とても色濃く思った。

さっき駅前で、会社帰りのひとたちにまじって歩く、ひどく顔色の悪い制服の女の子とすれちがった。
その華奢な背中には、ソフトケースに入ったギターがあった。
彼女が弾くフレーズが何なのか、僕には分からない。
彼女がうたうメロディが何なのか、彼女の口を突いて出る叫びは何を指し示すのか、
僕には分からない。
ただ、どんな音楽であろうとそこにはただ充溢した生命の−影が映るに違いないと、
斜め45度で虚空を見据えながら純情商店街の奥に消えてゆく彼女の姿をぼんやり眺めながら、
そんなことを考えた。



posted by youcan at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々、時々雨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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