まだ若くて想像できない人も、この曲を聴いて、それからテレビやネットで見たり聞いたりしたことのある「20年」を思い出しながら、読んでほしい。
偶々に立ち寄ったガソリンスタンドで、Radioheadの”No Surprises”が流れていた。
a job that slowly kills you,
bruises that won't heal.
You look so tired-unhappy,
bring down the government,
they don't, they don't speak for us.
1998年1月リリースのシングル、アルバムは97年の12月だから、この曲が書かれてからもう20年になろうとしている。
でも、<仕事にゆっくりと奪われる命>や<わたしたちを代弁してくれない新政府>−こんなフレーズたちは、つい最近の出来事を思い起こさせないだろうか、それはつまり、あのころと僕らは何も変わっていない、ということなのかもしれない。
そのなかでも、
“they don't, they don't speak for us.”
の”us”について、いまは考えてみたい。「わたしたち」とは誰か、ということだ。
大学に入って最初に出た講義は「偏見・差別・人権」という名前だった。「日本国憲法」と併せて、これは全学部生必履修であり、要するにヒヨッコが曲がりなりにも「市民」となるために絶対に身につけておかなくてはならない教養であったといえる。
あの時の授業の内容について、だいぶ記憶はぼやけてしまったけれど、そこで取り上げられたテーマが何であったかについては、しっかりと覚えている。なにしろ、それらは今も同じようにテレビで、新聞紙上で、ネットで、あれこれ言われ続けているのだから。
ジェンダー、LGBT、同和問題、宗教と道徳、外国人と国籍…わたしたちが、「わたしたち」と「わたしたち以外の人々」に線を引きたがる心の仕組みは本能的なものだとして、すくなくとも、その線の位置を動かしたり、線の濃さをぼやかしたりすることはできる。そんな希望のために言葉を紡ぎ、行進し、歌をうたい、制度を変えようとした人々はたくさん居ただろう。夢を語り道を指し示すリーダーや思想家が生まれ、理想を信じ、共有し、実現に向かって努力をした人々の数は数えきれないだろう。けれど、同じように、その理想を信じられず、むしろ脅かされたと感じ、嫌悪の情を覚え、自分を守ろうとー自分たちを守ろうとする人々が計り知れないほど現れたこともまた、ほとんど確かめる必要すらないに違いない。
あいつらが仕事を奪う。あいつらは郷に入っても郷に従わない。あいつらはこちらの価値観を踏みにじり、わたしたちが作ったルールを受け入れようとしない。
わたしたち以外の誰かが、いつもおいしい思いをしている。わたしたちは報われず、奪われ、無視されている―この20年の間に生まれた世界中の「わたしたち」は、こんなふうに、割に合わない気分にもとづく連帯のように思える。常に「わたしたち以外」への警戒や恨みを規約にもった互助会のように思える。
大統領が代替わりし、ホワイトハウスのウェブサイトからLGBTの権利、公民権、気候変動、そしてオバマケアに関するページが削除された。このニュースは、現代史の主戦場がどこにあるのかを指し示しているひとつのものさしではあるけれど、その根っこにある「気分」については、いまさら分析するまでもなくて、ぼくらの国をはじめとして世界中で「誰が叩かれ、何が禁じられたのか」を見ていけばなんとなく分かるだろう。
排外主義も、理不尽な差別も、水に落ちた犬を叩くようなさもしい心根も、すべて<心の安定がほしい>という種をもっている。
Such a pretty house
and such a pretty garden.
No alarms and no surprises,
no alarms and no surprises,
no alarms and no surprises please.
心の安定を願う気持ちは、誰の心の中にもある。それが弱さに振れていく場面も珍しくないということも、誰もがよく知っているはずだ。ただ、だからといって自分がその森に迷い込む必要はない。
その種を分かち合うために生まれて増殖し、互いに食い荒らしては分裂していく、ゾンビのような<わたしたちの群れ>に、取り込まれないでいること。群れのなかで、ひたすらに<わたし>であることーダイバーシティとは、そのような孤高と、表裏一体なのだと思う。
alarmもsurpriseも、できる限り恐れずに進まなくてはならない。可能な限り受け入れたい。
“There’s no countries”と歌ったあの人は、きっと国境線だけを指していたのではなくて、あらゆる境界線を、あらゆる分断を、ぼくたちが越えていける日のことを夢想していたに違いないのだ。最初に踏み越えるべき線は、自分の中にあるのだとあらためて確かめながら、2017年はじめの投稿を。今年は毎月ブログを書くことを目標にします。がんばる。