ときどき過食をした。明け方に近所の空いているファーストフードのお店にいって、適当に何かを詰め込み、そしてまた別の店に向かった。
あの頃、自分にとってのテーマは「不在」だったのだと思う。何者にもなれず、期待もされず、袋小路のなかでだんだん消えていくことを予感していた。それでいて諦めることも、何か他の役割を引き受けることもできない、ただ貧しさと飢えと焦りと憔悴を物質化したような生活が永遠に続くと思っていた(いつかは誰もが歳をとる、ということさえ理解していなかった)。
この「八月のブルー」という曲は、ウィリアム・フォークナーの『八月の光』に引っ張られて名前が付けられた。フォークナーのあの長い文体、複雑な構造、重く晦渋で圧倒的な物語に憧れて、そのようなうたを(自分の小さな声で)歌うにはどうしたらいいか- ちょうどこの頃ベースを弾いてくださっていたラリーさん(mother ship studio)に、「ワンコードでできるだけ長く引っ張る曲をやろう」とアドバイスをいただいた。ぼくのキャリアの中で、ほとんど唯一といっていいほどの「セッションから始まった曲」と記憶している。あの夏の、あの街の盆地特有の暑さ、あのどこへも逃れられない感じが下敷きとなっているような気がして、たぶんこういう曲はもう二度と書けないだろう(ギターの学はこの曲のためにシタールギターを購入してくれた。いま思うと「ゆーきゃん」というやつは、ほとんどそういった恩義の総体にすぎない)。
1945年8月1日から2日にかけて、富山大空襲があった。市街地のほとんどが全焼したという。祖父母はおしゃべりな人で、昔のことをよく話してくれたが、この空襲のことだけはほとんど聞いたことがない(曽祖父が満州で博打めいた事業に手を出し失敗して、這々の体で逃げ帰ってきたことなんかは愉快そうに何度も口にしていたのに)。山の向こうに燃える夜を、彼女がどんな気持ちでみていたのか、うっすらと夢に見ることもある。
戦後ずっと神通川の河川敷で続いてきた8月1日の花火大会も、今年は中止となった。そんなに賑わいもしない寂れた田舎の花火大会だが、ぱらぱらと土手に腰掛けて思い思いに空を見上げる人たちの無邪気な姿が見られないのはとても寂しい。75年という節目で糸がふっと切れてしまったことにも一抹の不安を覚える。なにより、感染者についてのほとんどを自己の責任に振り替えることが当たり前になってきていて、当事者のプライバシーを暴くことから社会的な制裁を課しあったりするところまで、まるで突然に自警団が組織されはじめたような空気には、このところ戸惑いを隠せないでいる。
繰り返すけれど、これは、行き止まりのそのどん突きのど真ん中で足掻いていたひとりのボンクラが、自分ひとり(というか、その状況そのもの)の「今日の」ために書いた曲だった。だからこそ、「今日を」手にできなかった75年前の、あるいはたった今どこかで空を見上げている(もしくは、見上げられないでいる)、自分と同じ友人たちのために、あらためて捧げたいと思う
(facebookより転載)