2020年08月22日

デスペラードアヴェニューの猫


ねえ君、知っているのかい 
舗道があんなにも眩しく光るのは 恋人たちの足跡 すれ違った影の涙さ
ペダルのきしむ音から すべてを許す物語までが 絡み合う屋根の上で
出鱈目ばかりが酷くきれい

愛の街角と ここは呼ばれてた ずっと前のことさ 誰も覚えてはいないよ

おかえり 意外に早く君は戻ってきたんだね
いまでもこの街の王様は 相変わらず驢馬の耳さ
崩れかけた時計台を守るため 兵隊が みんなを連れていった
ねえ君、笑えるだろう - 時は もうすでに 過ぎていたんだ

熱いまなざしを歌いたいなんてさ
出て行った君には何か見つけられたっていうのかい?

ほら また ゆっくりと近づいてくる夜の帳 大きな黒い翼
闇におびえる獣たちを 鋭い嘴で逃さない
たとえ俺が最後の一匹でも構わないよ ここはこんなに静かだ
ねえ君、もう一度歌わないか - そう いつかの愛の街角で


風はいつも忘れ物をする 黄昏の宝石たちは夢によく似た夢
水のない側溝で輝き それをじっと見ているまなざしがある
ひげよさらば、悲しみよこんにちは 全部一時のことさ
冒険も迷走も 飢えも渇きも すべてこの上にあり
明日になれば思い出し 明後日になればきれいに忘れて
君たちはまたどこかの星へ出かけていく

でも約束しよう 命あらばまた他日
ただし 絶望だけは ありったけ ありったけ置いていくんだ
土産話のひとつやふたつ かならずポッケに入れておくんだ
ここに吹く風は忘れっぽいから もうしつこく追いかけてはこない
君がもう一度あの眠れない夜を越えたら それが新しい始まりさ

ほらこの俺の ぴかぴか光り始めた目に賭けて
山の向こうに沈んでいくあの大粒の宝石に賭けて
約束しよう、約束しよう どんなに乾いた砂漠でも どんな廃墟の町でも 君のポッケにはもう絶望なんて入っていないんだ

 京都で一番好きな通りの名前を挙げろと言われれば、即座に御池通と答えるだろう(白川通も捨てがたいが、より馴染みがあるほうを選ぶと思う)。堀川通との交差点は北東角の歩道が広く取られていて、夕陽がすべすべした石畳に反射するとき、まるで橙色の液体をこぼしたように見える。西へ歩きながら、1分ごとに交差する細い通りの奥行きを確かめ、空を這う電線をたどり、市役所の手前くらいで振り返ると、通りを飲み込むほどの夕暮れが街に降りてきていることがわかる。夕焼けがきれいなのはどこでも同じだとして、太陽がそのまま都市を接収してしまうが如き黄昏を感じられるのは、きっと盆地の底にうずくまっている街ならではなのだと思う。

 で、猫だ。野良猫というやつはどこにでもいる − そうではない。彼らは、きみが必要だと思うところに必ずいる。大学での生活にうまく馴染めず、キャンパスに足を向けられなかった二十歳の頃には、御所のベンチ脇の植え込みに集まってくる猫会議にオブザーバーで参加させてもらっていた。売れないミュージシャンであり続けることに疲れ切っていたあの頃、バイト先のダンボール置き場で時々出くわす白猫が相談相手だった。彼らはひとの話を聴かない、それが自分たちのなすべきことだと知っているからだ。話すときはいつも一方的で、一通り何かを伝えたあとはいつも上の空になり、すぐにどこかへ行ってしまう。ぼくは猫がとくに好きなわけではない。たぶん猫もそうだろう。だから、ときどき会って、お互いに近況を伝え合うくらいがちょうどいいのだと思う。好き勝手なことを互いに口にして、はっとする気づき(あるいは隣のコンビニで買ったカニかま?)を拾い合えたら儲けものだと知っている、そういう関係。いまでも駅前の路地を歩いていると、たまに寄ってくるやつがいる。そういうときはだいたい何かを迷っているときだ。「あいつがな、あの黒縁メガネの冴えないやつだ、あいつがああいう顔をしているときは話を聞いてやれ、運が良ければツナ缶の一つももらえるだろうさ」とかいったメッセージが、連絡網に回っているのかもしれない。


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2020年08月09日

太陽の雨



太陽の雨 裏通りを抜けて
辿り着いたのは蝉時雨の時計台

太陽の雨 黄昏は近づき
地図もなく君は帰り道さまよった
夏祭りを待ち つまらない毎日 虚ろな瞳で数え尽くしてた

「すれ違いざま撃ち抜いてほしい」と
そっと呟いてただ遠くを見てた

かすれ切った声と言葉なき歌
崩れゆくこの空を拾い集めても
太陽の雨は乾く間もなく 終わらない偽りの祝祭がアスファルトを染める

大丈夫まだ沈みなんてしないさ 真夜中が来ても君を照らすのさ
太陽の雨 赫い光の雨 
焼き尽くすように街を濡らしてる


 左京から中京までずっと降りていく。白川通を下って今出川との交差点で曲がり、京大の敷地内をショートカットして東大路を仁王門通まで南下、そのあたりまで来ると西陽はずいぶん傾いてきて、空気そのものが琥珀色からくすんだ茜色に変わろうと身震いしはじめている。大和大路、つづいて縄手通へと入って行く。観光客向けに作られた街の顔が、夕闇の中ですっと溶け落ちたように見える瞬間がある。盆地の底、あの重厚で陰鬱な夏と、あらゆるものを浄化するざらついた赤光が重なり合い、波のように世界そのものが洗い流されていく。何のために自転車を漕いでいるのか、どこへ行こうとしていたのか、やがてもうすっかり忘れしまうほどの時間のたゆたい − 実際、ぼくはこういった類の景色をいくつも覚えているけれど、このあと自分がどこへ向かったのか、何をしたのか、そういった諸々については、まったく覚えていない。「太陽の雨」という形容は、そのようにして積み重ねられた印象の束の、さらなる残滓だと思っている。

 アルチュール・ランボーの『言葉の錬金術』には、こんなふうにある。「ついに、幸福だ、理性だ! 俺は空から青さを引っ剥がし、真っ黒にした。俺は、自然の光の黄金の火花となって生きた」。不世出の天才詩人の真意についてはさておき、「空から青さを引き剥がす」そのやりかたについては、なんとなく分かったつもりでいる。太陽の雨、裏通りを抜けて − この歌い出しはすぐに決まった。あの日(というか、あの日々のなかで)それを見たからだ。街の底に色濃く溜まっていく夕闇の予感、いま見えている物事からかりそめの約束を脱臼させて、自分のための意味を見つけ出すこと、これはぼくにとって希望の歌だった。幸福を、新しい理性を、手に入れるために歌わなければいけない歌だった。


 あれから十数年が経つ。富山は(京都とは違った在り方で)山に囲まれた県だ。どこへ行くにもトンネルを潜らなくてはならない。車での移動は必ず薄暗い場面転換を伴うけれど、それはいつもある種の麻痺とセットになっている。天井にオレンジ色の灯りが続く単調な風景を眺めているうちに、心の中でぴりぴりとしていたいろんなことが陳腐化していく。大げさかもしれないが、日常というやつはだいたいそういうものなのだと思う。
 太陽の雨を見なくなってから久しい。何が起きてもだいたいのことを「そういうものさ」と思ってしまうとしたら、それはぼくらがある意味では理性を失っている、そして幸福を削り倒してしまう直前にいるということの症状なのではないかと思う。同じ瞬間が一つとして在り得ないという基本的な事実を忘れて安易な日々の繰り返しに溺れ、立ち止まって耳をすますことや目をこらすことを忘れていくことは、緩慢な死どころかかえって破局を手繰り寄せる道であるだろう。針金を一本、心の裏側に通しておかなくてはならない。黄金の火花を自分の裏側に抱えておかなくてはならない。沁みるような痛みや渇きに怯えて感じることをやめてしまえば、日照りの夏をおろおろ歩くことをやめてしまえば、きみもぼくも歌う根拠を失う。信じられないようなニュースが、スキャンダルそのものとしか言いようのない政治が、あらゆる不正や下世話や欺瞞を陳腐さのなかに溶け込ませて消費するやり方が画面や紙面にどれほど溢れたしたとしても、それぞれの現実において、それぞれのやり方で「空から青さを引き剥がす」練習を欠かしてはいけない。

 大丈夫まだ沈みなんかしない、真夜中が来てもきみを照らす。空からやってくるものは、つねに可能性に向かってひらけていくための無限の道筋だけだ。
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2020年08月03日

八月のブルー / August Blue

2005年の夏は眠れない夏だったのをよく覚えている。というより、京都にいた頃は夏になるといつも不眠症気味だった。暑かったのも一因だが、それよりも街が賑やかすぎて、置いてけぼりになるのが怖かったのだと思う。

ときどき過食をした。明け方に近所の空いているファーストフードのお店にいって、適当に何かを詰め込み、そしてまた別の店に向かった。
あの頃、自分にとってのテーマは「不在」だったのだと思う。何者にもなれず、期待もされず、袋小路のなかでだんだん消えていくことを予感していた。それでいて諦めることも、何か他の役割を引き受けることもできない、ただ貧しさと飢えと焦りと憔悴を物質化したような生活が永遠に続くと思っていた(いつかは誰もが歳をとる、ということさえ理解していなかった)。

この「八月のブルー」という曲は、ウィリアム・フォークナーの『八月の光』に引っ張られて名前が付けられた。フォークナーのあの長い文体、複雑な構造、重く晦渋で圧倒的な物語に憧れて、そのようなうたを(自分の小さな声で)歌うにはどうしたらいいか- ちょうどこの頃ベースを弾いてくださっていたラリーさん(mother ship studio)に、「ワンコードでできるだけ長く引っ張る曲をやろう」とアドバイスをいただいた。ぼくのキャリアの中で、ほとんど唯一といっていいほどの「セッションから始まった曲」と記憶している。あの夏の、あの街の盆地特有の暑さ、あのどこへも逃れられない感じが下敷きとなっているような気がして、たぶんこういう曲はもう二度と書けないだろう(ギターの学はこの曲のためにシタールギターを購入してくれた。いま思うと「ゆーきゃん」というやつは、ほとんどそういった恩義の総体にすぎない)。


1945年8月1日から2日にかけて、富山大空襲があった。市街地のほとんどが全焼したという。祖父母はおしゃべりな人で、昔のことをよく話してくれたが、この空襲のことだけはほとんど聞いたことがない(曽祖父が満州で博打めいた事業に手を出し失敗して、這々の体で逃げ帰ってきたことなんかは愉快そうに何度も口にしていたのに)。山の向こうに燃える夜を、彼女がどんな気持ちでみていたのか、うっすらと夢に見ることもある。

戦後ずっと神通川の河川敷で続いてきた8月1日の花火大会も、今年は中止となった。そんなに賑わいもしない寂れた田舎の花火大会だが、ぱらぱらと土手に腰掛けて思い思いに空を見上げる人たちの無邪気な姿が見られないのはとても寂しい。75年という節目で糸がふっと切れてしまったことにも一抹の不安を覚える。なにより、感染者についてのほとんどを自己の責任に振り替えることが当たり前になってきていて、当事者のプライバシーを暴くことから社会的な制裁を課しあったりするところまで、まるで突然に自警団が組織されはじめたような空気には、このところ戸惑いを隠せないでいる。

繰り返すけれど、これは、行き止まりのそのどん突きのど真ん中で足掻いていたひとりのボンクラが、自分ひとり(というか、その状況そのもの)の「今日の」ために書いた曲だった。だからこそ、「今日を」手にできなかった75年前の、あるいはたった今どこかで空を見上げている(もしくは、見上げられないでいる)、自分と同じ友人たちのために、あらためて捧げたいと思う

(facebookより転載)

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2020年05月23日

『うたの死なない日』雑記(7)サイダー

サイダー

夏枯れの嘘 八月 赤い花 いま風に散った
黄昏るる雲 軽く睫毛を伏せて 話し始めた

サイダー飲んだ

にわか雨が上がったその後で 誰か
気づいてしまうんだろう
いま 気づいてしまうんだろう

おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ
そのなかに白いのが一話混じっている

忘れ物を きみに届けた後で 何がぼくに残るんだろう
何がいま ぼくに残るんだろう

サイダー飲んだ

18年ほど前に書いた、このアルバムでは一番古い曲です。これを初めて演奏したときのことは、我ながら驚くほどよく覚えています。まだ旧店舗(今のネガポジがあるところ)にあった西院ウーララでのライブに出演する前夜に書いたこと。その3日ほど前に大阪梅田のハードレインのイベントで共演した京都のバンドがドラムのスティックとかチューニングキーとかを忘れていったので、翌日それを届けに北野白梅町まで行ったこと(当時ぼくは左京区に住んでいて、立命館大学周辺にはほとんど行ったことがなかったので、烏丸通を超えるときなぜか異様に緊張したのでした)。当時ルーリードの自伝を夢中で読んでいて、ヴェルヴェッツの“Waiting for the man”の真似みたいなリリカルな物語を書きたかったのに、結局は出町柳の橋の上から見た景色の話になってしまたこと。演奏の直後に飛んできた、たまたま飲みにきていたローリングストーンズが大好きなおじさんの野次。


お前は声が小さい、それはどうかと思う、けどお前は心で歌っとる、だからビールおごったるわ。



ただ、肝心のサビのフレーズ(この部分をよくモノマネされます)をどうやって思いついたのか、タイトルをどうしてこのようにしたのか、そのことだけが思い出せないのです。くるりの「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったけな」との類似について、半ば揶揄めいた指摘を受けることもありました。この点に関しては、パクりと言われればそうだろうと思います。けれど、一種の反転として考えると、とても重要な点が浮かび上がってきます。今回、曲に関するぼくの考察は、ここに収斂します。



いまだからこそロスト・ジェネレーションは就職難のあおりをもろに受けた氷河期世代として語られますが、当時の感覚を辿れば、あの頃、喪失(ロスト)はすでにはぼくら自身の中にあったようにも思えます。ほとんどの若者にとって政府や社会から何かを引き出すという意識は希薄で、大多数の関心事は「漠然とすり減っていく世界のなかで、自分はどうやって生きるのか」ということ、もう少し言えば20代 −揮発性の青春、それが終われば自分がどんな人間になるのか想像もつかなくなる、その手前に残された「自分自身を設計できる領域」− を、どうやって引き伸ばすか、あるいはその終わりに向かってどう激しく生きていくかということでした。

だからこそあのヘンテコなターム「自分探し」が病的なほどに流行ったのでしょうし、テレビでは「タイは、若いうちに行け」みたいなCMがばんばん流れ、大学の学食にインド旅行中に行方不明になった若者の所在を尋ねる写真が貼られるまでになって、つまり、誰もがなんとなく、「生きる」ということの本質を見つめるチャンスは日常から切り離されたところにしか残されていないのだと気づいていて、いまそいつを探さなければやがて一切をロストしてしまう、という認識の上に日々を送っていたのだと思います。(日本以外のアジアに行けば、そのヒントが見つかる可能性が高いという考えが一つの神話であったことも、きっとこの時代の特徴なのでしょう)



炭酸飲料は、その透明感、泡がぷちぷちと爆ぜていく美しさ、甘みと喉の痛み、そして最後には気の抜けたものになるだろうという無常観など、「若さ」が自らの現状を託すのにうってつけなモチーフです。当時自分がどんな風に感じていたのか、もう内部に細かく踏み込んで調べる術はないのですが、とにかくこういう類の曲は、いまのぼくにはたぶんもう書けません。それは感受性の問題であると同時に、世界が自分にどのような役割を要求しているかを巡っての、ある種の布置についての問題だからです。しかし、書かれてからたとえ何十年経ようとも、あの川のほとりでサイダーを飲んだ、その時の情緒が消えることはありません。それは誰がこのうたを歌ったかというちっぽけな視点を超えて、この世に空と風と川とサイダーがある限り、共有できる人にはできる感覚として残り続けるはずです。



この曲は、はっきりと示されないままぼんやりと形作られていく思想や、うまく描写することが難しい気配など、日常の中に散りばめられた、言い表せない(限りなく小さな領域)のアンセムです (もとい、アンセムの一つです。アンセムは人の数だけあっていいと思います)。そして『うたの死なない日』とはおそらく、このような、ことばにできない小さな領域たちの中において、時代や空気に押し流されることなく自分の足場に立ち続けた人々が、再び旗を掲げることのできる日のことです。



ぼくは凡庸な人間です。今まで一度たりとも「これが代表作」と言えるアルバムを作れないまま、ぼんやりと活動を続けてきました。自分をどう見せたいかについても自問することがなく、誰に届けたいかイメージする力もありませんでした。ただ、自分と自分を取り巻く薄い外皮の境目に起こる火花だけを集めて何十もの曲を書き、集めてはアルバムに纏めて来ただけです。そのうちまた長い沈黙に入るかもしれません。もはや、自分が創作をしたいのか、自分が求められているかどうかも、よくわからないのです。けれど、これまで自分の中に突然降ってきた「うまく言えないけれど、なんだか忘れがたい、言わずにはいられないことたち」については、77億人のうち、ほんの絵筆の毛先くらいの人々には伝わるのではないかと思います。そして、文化とはそのような「うまく言えないけれど、伝わるもしれない」ことに賭ける営みの集合体であって、この賭け自体をやめてしまう事が文明の死を意味するのだということだけは、凡庸な人間にもはっきり見えるのです。


「おお、淡い太陽に焼け落ちたカラスの群れ、そのなかに白いのが一話混じっている」


白いカラスは、王様を探しています。正直で心優しく、そして名前に「キング」と冠されたルンペンを王に迎えなくてはならないと思っています。たぶん理想の王は、永遠に見つからないでしょう。ただ、それでも飛ばなくてはならないと信じて飛ぶことこそが、いま必要なのではないかと思います。フィクションはそのような想像力の冒険を可能にする場所ですし、想像力がない人間は歩くこともできません。
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2020年05月20日

『うたの死なない日』雑記(6)うたの死なない日

うたの死なない日

今日はうたの死なない日
夏草 西陽の丘に 年老いた塔の物見が 焼け残ることば拾って

朽ちた旗を翻し あなたは愛せるだろうか
今より確かな大地があなたを支えるだろうか

夕立の洗い流した慍りがそのまま長い河に変わって
街角切り取る画面の向こうにすべてを運び去った
後は

花の散らない日
風は掠れたまま もう誰一人ここから追い出されず
今日はうたの死なない日 暮れゆく世界のどこかで
年老いた塔の物見が 空を見上げ

懺悔から始めます。このタイトルはオマージュと剽窃の境界線を少し飛び越えている気がします。ロバート・ニュートン・ペックというアメリカの作家が書いた『豚の死なない日』というジュヴナイル小説があまりに素晴らしくて、いつかこの作品に影響された作品を書いてやろうと思っていたのですが、歳月だけを無駄に重ねた挙句、結局はひらがな一文字変えただけのものになりました。


直接的にこの曲に向けての引き金を引いたのは、砺波平野の散居村展望台から見た景色です。もちろんその景観は息を呑むほどに見事だったのですが、さらに衝撃だったのは、案内してくださった方から耳にしたお話でした。展望台の眼下に広がる水田のうち相当な割合が、すでに個別農家の持ち物ではなく農業法人の管轄にあるというのです。高齢化が進み、余所に経営を委託しなければ水田を保つことさえ難しい現実が、目に見える景色の下にもう溢れ出さんばかりに潜んでいるのを思い知らされました。そもそも散村とは家と家の距離を離すことで、水田と家の距離を近づけるための工夫であったはずなのに、もはやその水田を引き受けるべき家がなくなろうとしている。静かに流れていると思っていた農村の時間は、音を立てぬまま物凄いスピードでいろいろなものを押し流していたのです。


この感情が、怒りだと分かるまでには相当な時間が必要でした。そして今でさえ、何に怒っているのかと問われれば答えに窮します。べつに何らかの対象に向けて怒っているわけではないのです。あえていえば「遣る瀬無い」という感情がもっと適切なのかも、とも思います。古典でよく言われるところの「無常感」とはこういうものなのか、という気もします。ですが、いくつかの候補を行きつ戻りつした末に、僕はやはり「怒り」に還ってきます。あの話を聞いた後にもう一度、眩いばかりの緑に覆われたパノラマを俯瞰しながら、夏草の斜面を一目散に駆けていく小さな兄妹の背中を目で追っていく−そのときの感情を言い表すとすれば、消去法であっても「怒り」以外にはないと言わざるを得ません。人間の感情の暴発とは解せぬものです。


ただ、もう少しゆっくり見ていくと、その怒りが(誤解を恐れずいうなら)腐敗に対する怒りに、どこか似ていると言うことが分かってきます。何にも怒ってはないけれど、何かに怒っている。それは、冷蔵庫で牛乳を傷ませた時の気持ちとよく似た質感をもっています。ということは、つまり、ある種の発展と腐敗は同類であるということでしょうか。人々が懐かしい景色を置き去りにしたまま大地を去らざるを得ないという時代の流れは、何かを傷ませているのでしょうか。


できあがったものをあらためて聴いてみると、その懐古主義具合に驚きます(実は、この曲はまだ、バンドではステージの上で一度も演奏していません)。この曲がやりたいことは、まるっきり「いつかどこかで聴いた、誰かが歌っていたような、でも結局は実在しない歌」です。グランジがメジャーシーンへ押しあがっていくことに反発するためだけにアメリカ各地で散発的な盛り上がりを見せた、全然キャッチーじゃないオルタナティヴ・バンドたちのアルバム一曲目みたいな曲です。ルーリードが匿名で書いていたという安っぽいB級アメリカン・ポップスを、想像だけでアップデートさせようとした曲です。ジョーン・バエズのフォークソングにある涼やかさを夢見ながら、すぐに気恥ずかしくなって背景をわざとぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった曲です。浅川マキのように魂と歌が心中する景色に憧れながら、結局はあんな意気地もなくただ背中をすくめて立ち去るしかなかった−そういう虚脱と徒労を背に負いながら、それでも「怒り」と対峙し続けている曲です。

この曲は、置いていかれることも腐敗することも、追い出されることも、等しく拒絶します。だから、「うたの死なない日」なのでしょう。


簡単なラフスケッチを聴かせた後でアレンジと録音に対する漠然と抱えたイメージを話したとき、即座にrickyは「めっちゃ下手に叩こう」、岩橋くんは「俺、薬指だけで弾くわ」と言いました。吉岡くんはデタラメに弾いたフィードバックギターに謎のエフェクトをかけ、おざわさんは淡々とユニゾンしたりシンプルに三度上を重ねたりして、OKテイクはあれよあれよという間に完成しました。同じコードのままノイジーな演奏が延々と垂れ流されるようなイントロを録音していたのですが、ミックスの時点で縮められてしまいました。でも、やっぱりこのくらいが適当な気がします。
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2020年05月09日

『うたの死なない日』雑記(5)しずく

しずく

わたしが生まれてきたのは


物心ついてからずっと、ひとに身近な動物たちが、どうしてあんなにもひとを信頼することができるのだろう、という不思議を抱えています。自分とは違うこの二本足の生き物に対して、後ろに乗せたり、紐を預けて一緒に散歩したり、好奇心いっぱいで集まってきたり、撫でてほしいとせがんだりするのは、なぜだろうと思い続けています。

そんなふうに選別され、交雑されてきた歴史的な結果なのかもしれませんし、生まれた時から世話をしてくれる人間を安心な生き物と知った学習の成果なのかもしれませんが、ぼくを驚嘆させるもっと根本的な部分 – 彼らが生まれながらに「信じる」という行為の意味を根本的に知っているのはなぜか、という点に関して、まだ納得できる答えに出会っていません。

「しずく」というのは、パートナーの実家の犬の名前です。昨年他界したのですが、たまにしか遊びに来ないぼくのことを「お腹を撫でる係」と認識しており、前脚で「違う、そこじゃなくて、こっち」と指示を出してくる犬でした。果物が大好きで、散歩が大好きで、水が大好きで、小さい犬が苦手な犬でした。人間が食事をするときにはテーブルの下に潜り込んでだれかの足に体をくっつけ、誰かが夜更かししていると自分も灯りの下に出てきてフロアに寝そべり、玄関先に並べたスリッパを発見すると(くわえやすいのか)すぐに何処かへ持ち出しては叱られていました。


「わたしが生まれてきたのは」の後に続く部分について、文字にはしないほうがいいような気がして、ブックレットには載せていません。



座右の銘を聞かれたとき、いつも『星の王子さま』のきつねのことばを挙げるようにしています。実際には、きつねのセリフは至言ばかりなので、そのとき思い浮かんだものを答えます。やはり「かんじんなことは、目に見えないんだよ」が一番多い気がしますが、もしかすると自分の生き方をもっと大きく左右したのは、「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」というひと言かもしれません。サン=テグジュペリは飛行機乗りで、空から、飛行機から、砂漠から、多くのことを学んだひとでした。加えて「移動する」ことを本質とした生業−つまり時間をかけて二つの空間を行き来するという行為、大地から離れた時間の流れに自分を宙吊りにして、間に合うことと間に合わないことの狭間に身を起き続けるという生き方そのものからも、多くの気づきを得たのではないかと思います。

動物たちは、時間泥棒に盗まれるものを持っていません。灰色の男たちに狙われません。そのかわりに彼らは「あなたを信じます」という動作に、とても時間をかけているように思えます。善意について、ことばを介さずに教えてくれる存在がいるということ、自分たちのために時間をむだにしてくれる存在がいるということ、そのありがたみについて最近よく考えます。



このアルバムを作る前から、のんこに詩を読んでもらいたいということをぼんやり思っていたものの、肝心の内容が決まらずに、またも前日に書き上げたものを送るという無茶なスケジュールでの録音でした。テイクは一発OKで、集まったメンバーから思わず拍手が出ていました。
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2020年05月06日

『うたの死なない日』雑記(4)風



放り出された夏の青さ 雲の切れ間で小さく光る
悲しい気分だけを集め 冷えたグラスにそっと注いで
いま風が吹いたら全て忘れよう 誰かを愛したいだろう
木枯らしが吹くまで笑い続けて きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー ここで待ってるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

砂に描いた地図をなぞろう 表通りに飛び出したいんだ
たとえ波にさらわれ たとえすぐに消えたって 喩えようもないたった一つの時間
いま風が吹いたら何も言わずに誰かを愛したいだけ
こっちを向いたら笑ってみせてよ きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー ここで待ってるよ


池永正二さん(あらかじめ決められた恋人たちへ)とのユニット、シグナレスのファーストアルバムにも収録したものです。
高校生の友人たちが学校を卒業するにあたって何か贈ろうと思い、再録したバージョンをここに収めました。

モチーフは鎌倉です。アルバム収録曲の中でなんとなくこの曲だけ太平洋岸ぽい、と思っていただけると嬉しい・・・分かりっこないですよね。本当はトレイシー・ソーンの『遠い渚』に収録されている曲たちのようにしたかったのですが、ぼくが歌うととどうしても湿度が上がって(かつ温度が下がって)しまいます。「いま風が吹いたら」と歌いながら、実際に風はずっと吹いています。たぶん、そういうことです。



ヘッセの『シッダールタ』という小説の中で一番好きなのは、知恵と意思にあふれ、生まれながらに悟りに向かって生きていく資格を与えられたような主人公が、自分の息子を育てる場面になって煩悩に追いつかれるという箇所です。振り回され、心配し、伝わらず、挙げ句の果てに逃げられてしまうという展開を、ある種の必然として、突き放した筆致で書いている。冒頭以降ずっとクールなものとして描かれ続けてきた主人公が、急にただの頼りなく情けない親父になるこの部分は、読んでいて楽しいものではありませんが、大サビへ進むためのブリッジであることは間違いありません。ここを通ったおかげでヘッセは、自己にコミットするということはどういうことなのか、愛の美しさとは、醜さとはどういうものであるか、それらを「知る」こととは何であるか、といった問いへの回答に、小説でしか描けないやり方で到達しているように思えるのです。


うたは、音楽であると同時に文学でもあり、芸術であると同時に芸能でもあり、表現であると同時に生活でもあります。それらすべての狭間には「うた」によってしか指し示すことのできない領域というものが確かにあって、この曲はその一部分へだいぶ近づいているのではないか・・・と思っているのですが、まあ、きっとただの自惚れです。


レコーディングは、カラス・クインテットが全員参加しています。アレンジからミックスに到るまで「何も言わずに」完成したのがちょっとした自慢です。rickyが最後のサビのリフレインで、急にビートを変えて叩き出したときに「あ、これはうまく行く」と思いました。
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2020年05月05日

『うたの死なない日』雑記(3)ノアの蛙

ノアの蛙

芝生の底に眠る冷たい生き物
朝露に息を潜めて物語の始まりを待つ
夏空は音もなく画面から逃げ去り
青さのかけら 冷たい生き物は雨の夢を見ている 夢を見ている

どこまで行こう

たとえ愛より強い掟がきみを 洗い流したそのあとで
後ろ足を強く蹴ってきみを探すだろう

数え切れぬほどの音符を飲み込み響く方舟
命の重みより美しいメロディは終わりも知らず

指先には海の思い出

やがて知恵の実たちが新しい庭 爆ぜる時は喉を鳴らして
声の枯れる痛みのまま きみを探すだろう
どこまで行こう


雨蛙や殿様蛙は、眺めていても、その鳴き声を聞いていても、飽きません。春の夜、田んぼに鳴り響く彼らの大合唱に目を閉じてみるのが、ここ近年で一番好きな音楽体験かもしれないです。夏の朝、グラウンドの芝生の中で空を見上げているやつがいて、目を細めているような、恋うているようなその表情がとても印象的でした。その後は激しい雷雨になったように記憶しています。


YOUTUBEで誰かのお話をでたらめに再生しながら職場に向かうことが多いのですが、ランダムに入ってくることばの中にハッとさせられることがしばしばあります。あるとき同志社大学の小原克博先生の授業の一場面が流れてきて、ぼんやり聞いていたところ、動物と聖書のお話になりました。『創世記』において描かれる天地創造の順序−たとえば3日目に草と果樹、5日目に魚と鳥、6日目に地の獣と家畜、そして人間という順番で「創造された」という記載−は、実は当時における最先端の科学の知見を反映している。つまり、観察の結果、生物の発生にある種の秩序があるということが「発見された」成果なのだ−これを聞いたとき、ひとりで運転しながら思わず「うわーっ」と叫んでしまいました。それ以来、蛙が5日目に生まれたぼくらの先輩なのか、同じく6日目に生まれたのか、ちょっと気になっています。(彼らの飄々とした面持ちを見ていると、地上に初めて上がったときのことを覚えているんじゃないかという気もしてきます)




ベーシックテイクはTOKEI RECORDSのコンピレーションに参加したときのものをもとにしています(一部差し替えたんだったかな)、ギターはアコースティックギターとエレキギターの二種類を試して、エレキギターのテイクを採用しました。もう一本の歪んだギターは吉岡くん。これが全編を通じて最後にレコーディングされたパートとなりました。こういう荒涼とした感じの表現は、自分にとってあたらしい引き出しを開けたように感じています。続けているといろんなことが変わっていく、面白いものです。





アルチュール・ランボーの「大洪水後」という詩からは、理想を掲げた再出発が、結局は破局の前の焼き直しに終わるという示唆を読み取ることができます(と、随分前に授業で聞きました。ほんとうのところは分かりません。ランボーは難しい…)。

専門家会議の提唱する「新しい生活様式」には、いま生きている生活世界から僕ら自身を引き剥がすという要素も多分に含まれています。そのような「方舟」にいつまでも潜み続けられる人は少ないでしょう。いま、みんなでどうやって生き延びるかを考え続けることは、みんなの(当然、政府や自治体も含めての)問題です。同時に、大洪水の後でどんな世界が立ち現れようとしているのか、目を凝らしておかなくてはならない−とても難しいことですが。多くのものが洗い流された後、大地の上に「ぼくらが(政府や自治体や議員や大企業ではなく)」もう一度どんな社会を望むのか、いまこそ必死で考え、話し、準備をしていかなくてはならないと思います。


『大洪水』の記憶もようやく落着いた頃
一匹の兎が 岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め
蜘蛛の網を透かして 虹の橋にお祈りをあげた
ああ 人目を避けた数々の宝石 ― はや眼ある様々の花
不潔な大道には肉屋の店々がそそりたち 人々は とりどりな版画の面をみるような
遥か高く けじめを附けて重なった海を指して
めいめいの小舟を曳いたのだ (小林秀雄 訳)





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2020年05月04日

『うたの死なない日』雑記(2)グッド・バイ

グッド・バイ

季節の大きな海よ 誰もが漕ぎ出して行く
桟橋のこちら側で 手を振る年老いた春
忘れかけた傷たち浜辺に揺れて 
お別れが世界を染める
泳ぎ疲れた昨夜に まどろむ夢があれば
怒りに燃える明日に崩れぬ足場があれば
帆を開けよ 潮風 ポケットには狂いかけた磁石一つ


僕の中ではどうやら、春の海とは「ひねもすのたり(蕪村)」どころか、騒々しいものであるという思い込みが幅を利かせているようなのです。北陸の海は波と波の感覚が短いのか、いつ訪れても吠えるような音に出くわす気がします。
高岡という街に住んでいた頃、追い詰められたときには海を見に行き、あの波の音の中でいろんなことがどうでも良くなるのを待ちました。

だから、静かな海に出会うと、かえって心がざわつきます。
高岡の隣、新湊という街には潟があります。正確には「あった」というべきで、もう埋め立てられてしまったのですが、岸壁に囲まれて外海から隔てられた部分は残っており、右岸と左岸を結ぶ県営の渡し船が定期的に行き来する船着場は、寂れた待合所の佇まいも含めてとても静かな印象に満ちています。
感情を攪拌したいときには、ここにやって来ることにしていました。

春の歌、タイトルは太宰治からの拝借なのですが、中身はむしろ「グッド・バイ」ではなくて「津軽」に近い気がします。

“私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ。命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では失敬”



録音は、アコースティックギターとベースを一発録りし、さらに谷くんのマンドリンを重ねたものです。その場で「こんな感じ?」「いや、ここはトリルを効かせたフレーズを・・・」みたいなやり取りをしながら録っていきました。レコーディング当日まで曲を書き換えていたので、ちゃんとしたデモを岩橋くんに聴かせることができず、彼も?を頭に浮かべながら弾き始めたのですが、さすが長い付き合い、きっちりまとめてくれました。吉岡くんに出したミックスのリクエストも「彼岸チックな感じで」という乱暴なもの。つくづく人に恵まれています。(甘えてはいけないと知っているんです・・・ほんとうは)
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2020年05月03日

『うたの死なない日』雑記(1)烏  

飛び立って あとは濁さずに
坂道を 鮮やかに渡って
廃車置場の向こうの空に 思い出たちがはためいた頃 
ゴールラインに滲む夕暮れを 撃ち落としに行く

薄紅の遠い 遠い予感よ 
稲穂の海 黒い狙撃手は
帰る寝ぐらも忘れただろうか 羊雲たちの笑うその傍ら
鉄塔の上 息を潜めていた 瞬きもせずに

聴こえるか 鳴り響く世界が
鼓動だけを振り払おうとしてみても
失われずにその高さのまま
独りぼっちで
燃える翼抱いて 飛び続けて行けよ


『うたの死なない日」を作るにあたって集まってくれたメンバーに「カラス・クインテット」という名前をつけたのは、最初に録ったのがこの曲だったからという単純な理由でした。


集落のはずれに農業用水が流れていて、道路との境にある柵によくカラスが停まっています。その先には田んぼが国道を越えてずっと広がっている、ところどころに鉄塔が立っていて、送電線がそれらを繋ぐように伸びているー
そういう景色が出発点です。


カレル・チャペッック(“ロボット“ということばを発明した作家です)が書いた「宿なしルンペンくんの話」という児童文学に、白いカラスが出てきます。カラスは街角で出会ったルンペンの名前が「マーク・キング」であることに驚き、彼を文字通り自分たちの王様に推挙しようとする(マークは善意に溢れる正直者で、「君は鳥の中の白いカラスだ」と警察官に賞賛された経歴があります)のですが、マークはパンの切れ端を探して何処かへ行ってしまいます。それ以来白いカラスは配下の黒いカラス命じてマークを捜させ、だからカラスは「マーク、マーク」と鳴きながら空を飛ぶんだよ、というお話。


1930年代のチェコで書かれたこの話の背後には、ナチスが主張する「生産性」への抵抗が隠れていると、どこかで読みました。役立たず、はみ出し者、何を考えているのか分からず、世間からはゴミをついばんで生きていると思われていても、果たして本当に無価値であるといえるのだろうか ― そういえば、旧約聖書でノアが洪水のあと最初に放ったカラスは、陸地を見つけることもできずに方舟から出たり入ったりして、いったい何のために登場したのかよく分からない書かれようですし、ルカ伝にはもっとあけすけに「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」と、いわば役立たずの象徴のようにされています。そのようなカラスにさえも神の愛は分け隔てがないのだ、と。ぼくはキリスト者ではないのでこの一節を真に深く解釈することは出来ませんが、人間の社会には古くから「無益なもの、暗いもの」に対する嫌悪が根深くあったと同時に、それらを人間の本質的な一側面として受容し、共に生きようとするヒューマニズムもまた同じくらい昔に遡れる、ということくらいは読み取ってもバチは当たらないだろうと思います。


ともあれ、あの濡羽色のうつくしい鳥が太陽の位置を知っており、親切な人間に返礼を行い、仲間に危機を伝えあったり、はては死を弔うような(実際は違うにせよ)風習さえあったりするのだという話などがぼくの中に積もり積もって、カラスをこの曲の主人公として選ばせたのでしょう。京都に住んでいた頃も、東京で働いていたときも、明け方まで飲んでふらふらになりながら帰る駅前にはいつもカラスがいました。京阪丸太町駅の階段に並んで停まっていたあいつは、毎朝となりに腰掛けるぼくの顔を見て何を思っていたのでしょうか。



ベーシックテイクではアコースティックギター、ベース、ドラムを一斉に録り、ギターはその後差し替えました。岩橋のベースとrickyのドラムは三度目のテイクくらいでOKとなったように覚えています。低いところを歌っているコーラスは自分の声、ユニゾンはおざわさんです。典型的なサッド・コア調の曲で、吉岡くんのミックスが一番出したい部分をすっと出してくれています。つまりはこれがぼくの基調低音だと言えるかもしれません。
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2020年04月30日

明けない夜のために、すべての小さい場所のために


あたらしいアルバムを作りました。名前を『うたの死なない日』といいます。

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これまでの作品の中でいちばん自分から遠いところにある気がしています。何を思って書いたのかも、何を伝えたかったのかも、よく分かりません。ただ目眩のようなものを集めたら、こういう形になったのだと思います。


大学生の頃好きだった小説の描写に「ドアノブを握った瞬間に、そこから吐き気が流れ込んでくる」というのがありました。それと同じような感覚と言えばいいのでしょうか(色合いはずいぶん違いますが)目にした景色、感じた空気、聞こえた声、それらがすべて目眩となり、震えとなり、色となって降り掛かってくる−

そういうものを集めたら、こういう形になったのだと思います。


かつてぼくは、CDのレビューを書いて生計を立てていました。ツアーになればあちこちの街を飛び回り、毎日のようにステージに立っていました。「うた」を扱う職業人としてのアイデンティティに支えられて何年も(なんとか)暮らしてきましたが、いまはそういうフィールドから遠ざかってしまっています。一週間の中で、ギターを握らない日のほうが多くなりました。アンダーグラウンドの最前線にも、要注目のムーヴメントにも、ずいぶん疎くなりました。


それでも見えたということは、きっとほんとうだということです。口ずさんでみたら、はっきりと見えました。
ここには、うたが必要だということ。
うたは自粛の壁を越え、夜の裂け目を縫い、糾弾する叫びを掻き消して、誰かのところまで届くということ。



(いまから、すこし訳の分からないことを書きます。あらかじめお詫びしておきます)

自分の書いた曲に追いつかれたと感じる瞬間があります。
今作に含めた「サイダー」「風」の二曲はずいぶん前のものですが、プレーヤーを再生して聴こえてくる歌詞に、まるで後ろから駆けてきた何かに煽られ、肩をつかまれ、追い抜かれてしまったような感覚を覚えます。それが一体どういうことなのか、やっぱりうまく言えないのですが。

富山に帰ってから書いた曲たちも、既に自分を置いてどこかへ駆けて行ってしまいました。たぶん、それらがあった場所、目眩が生まれた根元へ還っていったのかもしれません。何のためにぼくのところへやってきたのか、ぼくに何を求めているのか、書き始めてからマスタリングが終わるまで、結局よく分かりませんでした。でも−

(訳の分からない話はここで終わり。このあと、大事なことを書きます。)




メンバー(カラス・クインテットという名前をつけました)と一緒に、時間をかけて作曲し、録音し、だんだん作品の輪郭が浮かび上がってくるにつれて、明らかになってきたことがあります。
それは、これらの小さく、いびつなうたでさえも、何かの役に立ちうるということです。

この作品は、OTOTOYによる企画 ”Save Our Place”の一環としてリリースされます。売り上げは全額、UrBANGUILDとK.Dハポンの支援に充てられます。京都と名古屋、ふたつの街で、それぞれの街特有の「けはい」を生み出し続けたハコを守るために、(それがほんのささやかだということは承知しながら)いま、この作品を使いたいと思っています。

https://ototoy.jp/feature/saveourplace/

東日本大震災のとき、ライブハウスは不安な人々に向けて、身を寄せ合う場所を解放しました。ミラーボールの下で思い思いに人々が集まり、音楽を通じて生きる意志と喜びを分かち合いました。しかし、今回は、解放されるはずの場所そのものが、失われようとしています。
わずかな明かりが消えそうなとき、ともしびを持ち寄り、守るのは誰の役割でしょう?

賭けなくてはなりません。

再び集まることを許された日に、帰るべき場所が、昨日と同じような姿でそこにあるように。
弱いものたちが夕暮れることなく、弱いままで、それぞれのブルースを持ち寄って集まれる場所がそこにあるように。
小さいものが、自らの小ささを恥じることなく立っていられる場所がそこにあるように。

私たちが「ありのままでも、そのようにありたい、在りたい私たちのままでも−つまりは、どのようなかたちでも」存在することが許される場所を守る必要があります。ライブハウスやクラブは、そういう場所です。

そして場所とは、私たち一人一人のことに他ありません。



そうだ。最後にもうひとつ。

ぼくは、自分自身の支援しなくてはいけないライブハウスやクラブが、ほんとうはもっともっとたくさんあるということを知っています。
カフェ、バー、ギャラリー、レコードショップや書店…つまりこれまでぼくらの生活と文化を支えてくれてきたありとあらゆる場所に対して、返さなくてはならない恩、果たさなくてはならない義理が山のように積み重なっているということも知っています。この場を借りて自分の非力と薄情さを懺悔させてください。

そして(そんな作り手のちっぽけさにもかかわらず)もしこの作品を聴いて、あなたに何か感じるところがあるなら、どうかあなたの街の小さな場所にも支援をしていただけないでしょうか。少しずつでいいのだと思います。長い目で、という点が大切なのだと思います。この長い夜を誰も欠けることなく越えていけるように、皆でゆっくりと歩きましょう。心からのお願いです。





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2018年09月30日

These Islands Are Our Islands

 "Atomize"という単語があることを知った。「原子にする」転じて「細分化しばらばらにする」ついには「爆弾で破壊する」という意味までもった言葉らしい。手塚先生が聞いたらどれほど悲しむだろう。
 でも、細分化され、ばらばらにされて、それで終わりというわけではない。ぼくらは原子のままでは生きられないからだ。結びつきを求めて、安定を求めて、全体に紐付けされる自分。網の目の中に固定化された静止画像のような自分。点描画のひと筆のように、共同体の物語とぼくら自身の物語の関係が、いつの間にか逆転してしまう。

 世界が、時代が、ぼくらを押し返しながら要求しているのはそういうことだという気がする。目覚めかけた夢の外、ちっぽけな小魚には立ち入れない水域があり、スイミーの真似事をして口をぱくぱくさせる魚群をもういちどただのちっぽけな小魚に戻そうとするのは鯨や鮫だけではなくて、海流や潮位もまたぼくらに厳しい。ぼくらの中にさえ理想と打算とが入り混じり、展望と言い訳がめまぐるしく入れ替わって、あのとき大きな魚を追い払ったような美しい影を作るのはもう格段に難しくなった。

 ぼくは思う。追い払った大きな魚それ自体が影だったのではないか。
 追い払った大きな魚は、ぼくらの影だったのではないか。
 大きな魚にも正義や必要があったとして、それはぼくらの影のなかに、もうすでに含まれていたのではないか。
 
 あきらめてはいけないと思う。鮫や鯨を追い払うことも、流れや潮に立ち向かうことも、そして自分自身の影をよく見つめていることも、あきらめてはいけないと思う。大きなものはいつだってきみを飲み込むし、大きなものをかたちづくる原子は、つながりを探して迷い込み、かえってatomizeされたきみやぼくであったりするわけだけど、ピノキオがあのモンストロのお腹のなかから帰ってこれたように、何が人間をかたちづくっているのかを忘れなければ、きっと大丈夫なのよさ。



 ところで、田代君に連れて行ってもらったコザの街並みと、幼稚園児後ろ姿を入れた構図がニールヤングの『渚にて』にそっくりだったあの浜辺の景色はいまでもよく夢に出てくる。たぶん一生忘れないだろう。おおきな台風、みんなが無事だといい。
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2018年09月27日

Light Your Fire

躓くことのなくなる日は来ないだろう。わたしたちは毎日、躓きを生きているから。
けれど、くらやみに火の灯る限りひとはその方向に歩いていけるはずだ。

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点灯夫であろう。
たとえ1分でひとまわりする星にうんざりしても、やっぱり灯りを点けることを諦めてはいけない。
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2018年09月26日

lemon tree, very pretty

我が家の檸檬には実がついていない。
鉢植えを買ってきたときには付いていたのだけれど、昨年の秋に切ってしまった。
北陸の寒くて暗い冬をなんとか越え、今年の夏にはせっかく立てた気遣いの支柱も無視して、太陽の方向へ気ままに伸びていった。

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名を捨てて実を取るという言い回しは好きではない。そのくせ、名がそれほど大事だとも思わない。たとえどれほど果汁と香りにあふれた鮮やかな実だとして、なぜか葉の方が愛おしいときもある、というだけの話。

それに檸檬の実は爆弾だ。本好きとしては積まれた上で炸裂されてはかなわない。
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2018年09月25日

新しい人

マイクロフォンは楽器だと思っている。
ステージの上で、ぼくはそれを確かに"弾いて"いる。
それ自体が音色をもち、もしかすると、声をもっている。

なんとなくだけど、プラスチック消しゴムによく似た親近感を抱く。
文字を"消す"ために在るようでいて、じつは何かを描いているそいつ。

間にあるもの、経由するもの、選びとって進めるものたちが信念をもって存在していると安心する。

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2018年09月22日

there is a song for you

そらは、何かがそこにないということを示している
日本語で「空白」という何かは、やはり一つの色だという点で正しかったのだと思う
でも、あるいは−そこにあるのは、タトゥーのような何かであるということ
この青に手をひたせば、その痛みで確かめられるのかもしれない

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2018年09月14日

paint it black that will be white and the white will be black but The Blues Are Still Blue

きみは鉛筆ではないから、どれほどいのちを削ったところで、震えのない数直線を引けるようにはならないだろう。それが素晴らしいことだと分かるまで、あとどのくらいかかるのか−声を搾り、塗り重ね、妥協を繰り返して、それでもまだ青色は、青いか。

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2018年06月03日

Sun/No Sun,or The Carnival Is Over




 山王祭、というおまつりに行きました。といっても日本三大祭りに数えられる赤坂の本家ではなくて、富山の日枝神社、つまり分社です。神様の出張先でのフィーバーに付き合ったわけですね。


 街中に人がいない、郊外のショッピングモールに集客を奪われているという状況は、多くの地方都市が共通して抱える問題の一つであると思います。コンパクトシティを目指す富山市も例外ではありません。総曲輪通りは最近にぎわいを取り戻しつつあるような気もしますが、それでも高岡のイオンモールの日曜日−−廊下に家族連れがあふれ出し、窓のない箱にすし詰めのまま、買い物と食事と映画とスマホに塗りつぶされた休日のありさまを目にするにつけ、なんとも言えない気持ちになってしまいます。

(ぼくは、ショッピングモールの面白さも、その便利さも、地方都市にとって自動車でのアクセスのしやすさがいかに重要かということも分かってはいるつもりです。それでもやっぱり気になるのは、あれが大きな箱であること、現実からある種の娯楽に向かってズームインすることを強制するような装置であること、風や青空や西日や夕暮れやときには突然の雨が休日のショッピングには、デートには、家族サービスには必要なのではないかということです。これはノスタルジーでしょうか)


 おっと、前置きがこれ以上長くなるまえに、山王さんの話です。富山駅から大通りに沿って15分ほど歩く、その道すがらも若者たちでいっぱいでした。大通りは歩行者天国になり、あちこちに置かれたベンチやテーブルは8時過ぎにほぼ満席、参道はぎゅうぎゅうでなかなか進まず、居並ぶ屋台には行列ができていました。中学生、高校生、大学生、ヤンキーチックな元気のいい人々、若い夫婦と子供たち、時折年配のカップル、そして見回りに来たんだろうとおぼしき学校の先生たち。グランドプラザ前には大きな飲食エリアが設けられていて、赤ら顔の大人たちがいい感じのパーティー感を醸し出していました。売られていたクラフトビールを浴びるほど飲みたかったのですが、節約のためにコンビニで自社ブランドの発泡酒を買って我慢しました。
 
 祭がもつ機能については、文化人類学や宗教学、民俗学に膨大な研究の蓄積があるでしょう。わざわざここで自説をひけらかして自分の無学を暴露する必要はないのですが、幾冊か読んだ本に教えてもらった、なけなしの知識をメガネのレンズに嵌め込んで雑踏を歩いてみると、あるクエスチョンに突き当たりました––みんな、なんでこんなに祭が好きなんだろう。だんじりを担いだり曳山に乗ったり踊ったりするならまだしも、だらだらと歩き、厳密にいえば当事者になっているわけでもないのにな、と。以下は、それについて二つのとりとめもないメモ書きです。





 ひとつめ。人のこころのどこか広い部分を、大きなものの一部になりたいという気持ち、あるいは大きなものに参加したいという気持ちが占めているのだということ。
 (もう一度繰り返しますが)あの場所に集まったなかには、日枝神社にお参りをしないで、場合によっては境内にすら立ち入らず、参道をぐるぐる巡って帰っていくだけ、コンビニでも秋吉でも買える焼き鳥を歩きながら食べて満足げに帰っていくだけのひとたちも多そうでした。神様としては不満が残るかもしれません。けれど、それもまたお祭りなのでしょう。友人知人の枠を超えて集まり、場を共有することで、ひとつの<群衆>になる。非現実をもとめて飛び込んでくる渦のなかに自分自身を投げ込んで、大きなものと接続する。そのときわたしたちが感じるのは一体感の獲得からくる高揚した気持ちであるとともに、みんなの中に溶け込むことで<わたし>が<わたし>でなくなる解放感でもあるでしょう。
 ネパールかどこかの村で祭の1日だけ王様が最下層のカーストになる、普段あつく敬われる王がその日だけは罵られて卵を投げつけられるという映像を見たことがあります。毎年テレビで紹介されるヨーロッパのトマト投げ祭やタマゴ投げ祭もしかり、乱痴気騒ぎ(カオス)が、神聖さ(ハレ)と密接な関係があるということはもはや常識的な知見だとして、ぼくが気になったのはその裏返し––つまり、わたしたちが日常(ケ)をどれほど澄まし顔で生きているか、秩序だった窮屈さ(=見かけのコスモス)の中を生きているのかを、祭りは明らかにしているのだということ。
 祭りの夜、「そこに祭りがあるから」というだけでさしたる目的もなく繰り出してくる子どもたちの表情を眺めていると、たとえ初めて見る中学生であっても「こいつら、普段より<悪い>顔してるなあ」と思えてきます。ではここでいう<悪い>は何を意味するのか––それが解放であることはほとんど自明でしょう。しかし、何からか。規範から?常識から?いえ、たぶんそれよりも大きな束縛の源は<関係>です。わたしたちの毎日は、言語化不可能なほどに繊細なカースト制、複雑な関係性の地図によって網をかけられ、包まれて、秩序を保たれている。その網が緩んだ祭りのときだからこそこどもたちが見せる表情、それはおとなにもわかる(おとなにも及ぶ)解放のサインなのではないでしょうか。  
 逆に言うと、祭りの夜にこどもたちが<悪い>顔をしなくなったとき、わたしたちは注意しなくてはなりません。祭りの空間とは別の場所に、解放の場が設けられたということであり、そこでは長い歴史を経て築かれてきた祭りのルールや常識とは異なる原理が幅をきかせ出す可能性があるからです。


 ふたつめ。もしかするといま言ったことと矛盾するかもしれません。つまり、ひとがおまつりに行くのは、関係を捉え直すことの気持ちよさを味わいたいからなのではないか、という仮説です。
 たとえば同じクラス、あるいは同じ部活動に属する仲のいい二人がお祭りに出かけていく。お祭りには制服を着ていきます。そうすると、普段あまり顔を合わすことのない先輩や後輩であっても、あ、同じ⚪︎⚪︎高校だとわかる。それが新鮮でちょっと嬉しかったりする。あるいは同じ学年でも話しかける機会のなかった異性とばったり会って、声をかけるかどうかためらったり、お前が行けよ、いやお前こそと押し付けあったりする、そのとき他の群衆はすべてシチュエーションの一部になってしまうわけですが、その<普段と違う>シチュエーションにおける再遭遇が、もしかすると最初に書いた(どちらかというと定説的な)ことよりも、祭りを意味深く、創造的なものにしているのではないかと思います。
 祭りの夜には、普段よりも暴走族が現れやすいような気がします。年々暴走は難しくなっているにせよ、特攻服に身を固めた一団が歩行者天国を練り歩いたりする景色はいまでもときどき見られる、それを単純な自己顕示欲の現れとして片付けることはたやすいですが、もしかすると彼らは、誰かに見せて悦に入るというよりもむしろ<自分が何者なのか>を確認したいと思っているのではないでしょうか。
 越中八尾の「風の盆」というお祭りは、各町の町衆がそれぞれ稽古した踊りを披露しながら練り歩きます。現在では有名な風物詩となっており、全国各地から観衆が訪れる富山の貴重な観光資源のひとつですが、聞いたところによると、昔は傘をかぶって踊る男女が、お互いのフォームの美しさや、傘から覗く唇の鮮やかさなどに惹かれて、そっと踊りの輪を抜け出していくような<出会い>の場でもあったのだと。日常生活の中では気づくこと/築くことのできなかった、新しい<関係>を結ぶ機会として、祭りが機能していたということ––そして、関係を結ぶということは常に自分の位置を確認するということでもあります。


 祭りにおける解放は、確かにリフレッシュにはなります。あらかじめ設定されたカオスを調整弁として、日常に淀んだやるせない気持ちたちを逃がしていく、それが翌日からの秩序ある暮らしのための原動力になることはよく理解できます(土曜の夜があるからこそ月曜日からまたがんばれる)。為政者たちは古来から、そんな風にして祭りをうまく利用し、民衆の不満をコントロールしてきたのでしょう。そういったカオスとコスモスのバランスの歴史について想いを馳せるだけでも興味は尽きませんが、さらに面白いのは、わたしたちがけっして、与えられた場所、与えられた娯楽、与えられたカオスのなかでの予定調和的な熱狂を消費するだけで満足はしない生き物であったという事実ではないでしょうか。出会い、関係を見出し、捉え直すことで自分の位置を確認していくことは、それ自体がクリエイティブな作業であると思います。解き放たれる場において繋がる––祭りは日常を単純に再生産していくための排煙装置でなくて、非日常からのフィードバックによって、くだらない現実をちょっとずつ作り変えていくための化学反応を起こす実験場であるかもしれない、その可能性について考えることは、もしかすると熱狂によってわたしたちを支配しようとする誰かの意図や、無言のまま右へならえを強要するような時代の空気と戦うための知恵を授けてくれるかもしれません。そのことについてもっと深く考察してみたい、と思った山王祭でした。











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2017年12月28日

All You Need Is_

 「2017年の目標は毎日ブログを書くこと」と書いてから、今日で11か月と6日が経過しています。そして1年の残りはあと3日。結局投稿したのは(このポストを入れて)2回だけ。約束破りも甚だしいですね。

 あっという間に過ぎてしまった時間が登り坂なのか下り坂なのか、正直なところ分かりません。もうけっして若いとは言えないフェイズに自分が突入したのは確かで、けれどその割にはちゃんとした責任感が伴っているわけでもない、相変わらずなるようになるさ的な甘めの人生観と人間観のまま、その日その日をなんとか生きているという自覚はあります。一方ふと世界や社会に目をやれば、ものすごいスピードで何かが流れ去っていく残像が見える。呆然とします。光陰矢の如しというけれど、いったい飛んでいるのは時間なのか、わたしたちなのか、それとも世界なのでしょうか。流れを見ているのか、流されているのか、もう分からなくなってしまいそうです。
 でも、もう一度気を取り直し、少し視線を落として周りを見渡せば、今年がぼくにとっていい年だったのはやっぱり間違いないようです。自身の考え方を変えるような出会いも、足場がどこにあるのかを確かめることができた出来事も、自分の周りでゆっくりと状況が変容していくあの静かな高揚感も、たくさんありました。ゆっくりしたり、ぼーっとしたり、だらだらしたりする空っぽの時間がもてなかったことは残念ですが、まあそれだけ目まぐるしくも充実した日々を送らせてもらったことには、とにもかくにも感謝の念でいっぱいです。みなさんありがとうございました。

 それはそうと、一年の最後に書いてみたいのは「憎しみ」というものについてです。

 憎しみとはいったい何なのか。ここのところずっとぼくは考え続けています。ある対象に向けたネガティヴな感情。手元にある国語辞典では「疎ましく、懲らしめられてほしいと思う」、漢和辞典では「嫌悪する、恨む」とありますが、ぼくにはそれよりもさらに強い色合いがあるように思えます。対象の存在を否定し、ともすれば消してしまいたいという衝動が、憎しみには込められていないでしょうか。
 何かを「憎むこと」について、学校では習いませんよね。「憎しみは、好ましくない感情だ」ということは教わったかもしれません。あいつ嫌いだよ、とか、どうもここは居心地がよくない、なんでこうなるの(怒)とかいった感覚は日常的に味わうことが多いと思いますが、本気で憎むというところまではなかなかたどり着かない。そもそも何かを憎んだことがあるかなと振り返ってみても、すぐには思い浮かびません(ぼくが能天気なだけかもしれませんが)。幸い(?)小説や映画や漫画のおかげで、憎むということがどういうことなのか、なんとなく場面を想定することはできます。けれど、具体的な事象を数え上げてみても、憎しみそのものを照らすことができるとは限らないようにも思えるのです。相模原の事件は憎しみによるものだったのでしょうか。だとすれば彼が憎んでいたのは障碍者たちでしょうか、それとも自分自身の生きづらさでしょうか。イギリスやフランスに吹いている移民排斥の風は憎しみでしょうか。彼らは移民を憎んでいるのか、生活の悪化を恐れているのか、どちらがより適切なのでしょうか。生理的もしくは空想的な嫌悪感、自己保身の欲動、劣等感の裏返し、虚無的な暴力衝動といった感情の集合体は、憎しみと同じでしょうか。私たちが生きているその日常で、この感情がむき出しで転がっている場面に遭遇することは果たしてどのくらいあるのでしょうか。

 最近、一人の若者と出会いました。この若者はとあるスポーツをやっています。その競技において将来は間違いなく日本を代表するであろうと言われている才能溢れるアスリートです。日本での高校生活をいったん括弧に入れて、ヨーロッパに渡ろうとする彼と、渡航の1週間ほど前にゆっくり対話する機会があり、二人で「ノーマンズ・ランド」という映画を観ました。旧ユーゴスラヴィア紛争中のボスニア=ヘルツェゴビナを描いたこの作品を観ながら、時折あの場面はこういう意味があってだな…という解説をぼくが入れつつ、それについて彼が感想や意見を話していくという形で対話は進みました。

 セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの人々の関係がどのようにこじれていったのかを話していると、若者は腑に落ちたような顔で呟きました

 ―それで、試合のときはあんな空気になるのか。

 彼はこれまでにも幾度か欧州での合宿や大会に参加しています。それらの場面で、実際に二つの国のチームの試合を見るたびに、何かがおかしいと感じていたのだそうです。ぼくは内心愕然としました。紛争が終わってもう25年経とうとするいまも、若きアスリートたちの認識や感情の襞に歴史のひずみが染みついているのだと。
 もちろんこの会話だけを材料に選手たちの感情の質を断定することはできません。セルビアとボスニア=ヘルツェゴビナのスポーツメンがそれぞれ生まれてからどのような遍歴をたどってきたのか。その「空気」を体現し煽動していたのは一部の(たとえばナショナリストの家に生まれた子弟がチーム内にいた、など)だけではないのか。その場限りの苛立ちや気持ちの高ぶりといった個人的な感情を民族的な侮蔑語に振り替えただけなのかもしれない。ひとりの若い日本人による一瞬の印象だけをたよりに、民族の間に刻まれた溝の深さを測り知ることなんて到底できないでしょう。
 それでも、二つの集団が祖国や民族を背負って向かい合うとき、純粋に友好的なスポーツ競技のなかに互いを留めておくことを許さない歴史的な事実がそこに存在していること―そして、それぞれの国の若者たちはその事実を前提に話を始めなくてはならないこと― 彼は直感で、この確かさを感じ取っていたのではないかと思います。

 何かを嫌悪する気持ち、誰かを糾弾したくなる気持ち、見下すことで留飲を下げようとする欲求、それらの感情は往々にして、認知のゆがみや無知(正しく知ろうとしないことも含む)を根っこに持ちます。知らないことへ目をつぶりたいという逃避衝動や自分の望んだように世界を解釈したいという欲求は、けれど、その人の耳や目をむき出しの現実の中にさらけ出すことができれば、夜の終わりのように(壁が崩れるように)消えていくものです。それは子どもが何かを学び、新しいことを知る過程と似ているでしょう。「啓蒙」ということばを考え出した人は(ルソーだっけ?)つくづくお見事だなあと感心させられます。
 憎しみは、そのような幼稚な「蒙さ」とは異なるものです。確かに、憎しみが正常な眼差しを奪い、認識を歪め、判断を誤らせることはあるでしょう。しかし、その出発点において憎しみは「傷」から始まっています。コンプレックスの変形としての嫌悪感などよりさらに直接的な、人間の尊厳が傷つけられたときに滴る血こそが、憎しみを育む。この点において憎しみはすでにむき出しの、圧倒的な現実から始まっている、いや、始めさせられている―



 インターナショナルスクールの授業で行われたディベートで「第二次世界大戦における日本の罪」をめぐって主にアジア系のクラスメイトたちから集中砲火を浴びたことを機に、嫌韓・嫌中という感情を刷り込まれてしまったという帰国子女に会ったことがあります。ネットやヘイトデモで飛び交うような汚い言葉を彼はほとんど使いませんでしたが、かえって観念的で空想的なレイシズムとは次元を異にするような、自尊心による復讐とでも言うべき激しいものが、感情の底に沈んでいるように見えました。そこに、貧乏学生時代、家賃の支払いにも困る暮らしの中で、ユダヤ人の高利貸し達を見ながら、あの唾棄すべき思想を抱きはじめたというヒトラーのエピソードと重なる部分はあるでしょうか。中東やアフリカで、反政府組織によって監禁され調教されて殺人マシーンに仕立て上げられるあの少年兵たちの影とつながるものはあるでしょうか。優生思想(とさえも言えない拗ねた反抗心)の亡霊にとりつかれて相模原の施設を襲ったあの青年との類似点はあるでしょうか。
 ひとは現実のなかで出会った人やものを対象に感情を育みます。現実が自分に襲い掛かってきたとき、その痛みのなかで圧殺された魂の一部が変質し、憎しみとなる。出来事の重大性を<客観的に>測定しようとすることにはほとんど意味がありません。当事者が現実をどのように感じたのか、彼にとって現実はどのようなものだったのか―ほんとうの「重み」とは、彼の前に立ちはだかる現実のその<現れ>を推察することでしか知りえないものなのですから。憎しみに基づく事件が起こったとき、わたしたちはしばしば衝撃のあまり過剰なワイドショー化を求めてしまったり、脊髄反射的に抹殺することを求めたりします。けれどほんとうに注意深く見なくてはならないのは、彼がいったい何を憎んでいたのか?その憎しみはどこから来たのか?という「人間の闇」そのもの、ではないでしょうか。
 (余談ですが、これもまたある帰国子女の友人―南アフリカからの帰国子女でした―から聞いた話です。あの当時、現地の日本人の大部分はアパルトヘイトが道理に合わない制度であると認識していた、現実にある差別についてはよく観察していた、けれど彼らはけっして黒人たちの心の中までをのぞき込もうとはしなかった、だから「名誉白人」であることに耐えられたのだろう、と)

 幸か不幸か、日本の社会はこれまでずっと現実そのものがオブラートに包まれてきたように見えます―あるいは私たちの眼鏡に「世の中なんてそんなもんだよ」という諦めが染みついていたというべきかもしれません。差別は隠されており、不平等は人生に織り込み済みのものとして扱われ、現実は目の前からではなく背後や足元から人間の歩みを絡めとるもの―そんな社会で生きる私たちにとって、憎しみという感情はあまりに強すぎ、遠すぎるのでしょうか。敵意が、嫌悪が、嘲笑が、嫉妬がこれほどまでに渦巻いている日々においても「おれはあいつが憎い」という叫びを聞く機会は多くはありませんでした(だからこそ凶悪犯罪やヘイトクライムが起きたときには、いつも大きな衝撃を受けてきたのでしょう)。
 でも、これからもずっとそんな社会であり続けるのかという問いに対しては、やはり不安を覚えざるを得ません。今年起きた様々な事件を機に、過労死やセクシャル・ハラスメントに対して上がってきた様々な告発は、上っ面の平等のもとで見えないことにされていたパンドラの箱が開かれていく音です。景気は上向きになってきていると言われていますが、格差の拡大についてはどうなるのでしょうか。ユートピアとディストピアが境界線をはさんで併存する社会は果たして豊かな社会なのでしょうか。外国人実習生という名目での低賃金労働や、生活保護の削減などは<弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者たちを叩く>などと口ずさんでしのげるほどの枠を越えているのではないか、個別の政策にどのような理屈があろうとも、その政策の影で搾取と弱者切り捨てが進むのではないか、そして社会が切り刻まれ、階層が作られ、不条理が姿を現しつつも動かしがたいものとして鎮座するその下では、「憎しみ」がスタンダードな感情として跋扈しないわけにはいかないのではないか、なんだかそんな危機感が、影のようにひたひたと後を付いてきます。

 愛の反対は無関心だと言われます。マザーテレサは憎しみついては何か語ったでしょうか。憎しみの対義語は慈しみだとして、果たして慈しみをもって照らせば、憎しみを打ち消すことができるのしょうか。
ぼくは宗教家ではありませんし、社会慈善家でもフラワーチルドレンでもないので、憎しみに愛や慈しみをもって対するという言い方には、ある種のためらいを感じるのも事実です。対話や傾聴はそれ自体ではひとつのテクニックに過ぎず、なによりもそれは個々の関係のなかでこそ力を発揮するものです(カウンター・アクションの意義も認めますが、それは対処療法であって、ヘイターたちをフィールドから退場させる効果はあっても、根本的な解決とは少し違うのではないかとも思っています)。
 シンプルに、憎しみの誕生を防ぐ方法を考えなくてはならない、あるいはゴジラを凍結するように巨大な憎しみが世界を破壊する前に冷温停止させなくてはならないということが、この間、ぼくの頭の中にある主要な関心事の一つです。なんだよ大げさだよ、お前みたいな凡庸な小市民に何ができるんだよという声はいつもどこからか聞こえてきますが、そのたびに、大げさなものをかみ砕くところから始めたいんだ、何ができるか分からないから、まず考えるところから始めなくちゃならないんだ、と言い返すことにしています。

 ひとつには、できるかぎり多くの他者と<開かれてある>関係を作ること。できるだけ常に<開かれてある>場を守ること。またひとつには不条理や不公正について耳を澄ましていること、踏みつぶされそうな誰かの声を聴くこと。安易な自己責任論に流れず、公正であることや公正であろうとすることの意義や価値について、時間と手間をかけて伝えていくこと。そして<常に開かれてある><絶えず公正であろうとする>という(いわば)綺麗事を、できるだけ綺麗なまま現実に埋め込んでいけるような手法を考え続けていくこと。先ほど書いたヨーロッパへ渡航する若者は、ヘイトスピーチやレイシズムについて「恥ずかしいと思わないのか」という疑問の言葉を発していました。個人の印象や好き嫌いや恨みつらみは認めるとしても、その感情を差別という形で正当化すること自体がおそろしく醜いことのように映る―ぼくもまた、彼の感じ方に賛成です。このシンプルで自明な、理性と感性の結びつき(倫理と美学の結びつきともいえるかもしれません)は、何よりも大切にしなくてはならないと思います。
 最近、自分のやっていることは何なのか、やろうとしていることは何なのか、うまく言い表す方法がないかと思案した挙句、「未来建設業」ということばを思いつきました。自分ひとりでは絶対に造ることのできない、設計図を持ち寄っての試行錯誤が頼りで、サグラダ・ファミリアよりも果てしのない事業―

 サン=テグジュペリは『戦う操縦士』の中で、こう書いています。

 私の属する文明の人間は個々の人間から出発しては定義できない。個々の人間は人間によってはじめて定義される。あらゆる存在のうちにおけると同様、人間のうちにはそれを構成する素材によっては説明しがたいものがある。ひとつの寺院は石材の総量とはまさに別のものだ。石材は幾何学であり、建築学であるに過ぎない。寺院を定義するのは石材ではない。寺院はその独自の意味によって石材を豊かにするのだ。それらの石材は、寺院の石材たることによって尊くなったのだ。このうえなく多様な石材が寺院の単一性に奉仕している。寺院はその賛美歌のなかに、どんなしかめた口でも吸収してしまう。

 これにぼくは(おこがましいことは承知で)次のことを付け加えて、この饒舌なポストを終わりにしたいと思います。すなわち―

 それでもぼくは、個々の人間を通じて人間が実現することを信じる。個々の人間が人間という定義に向かって生きていく歩み、それぞれの石材が寺院の意味を支えていることに誇りをもつこと、それこそがよりよい文明への道を作るのだ、と。



 今年5月、マンチェスターで起きたテロに対して、あちこちで歌われた”Don’t Look Back In Anger”。アリアナ・グランデのステージでクリス・マーティンが歌った映像も、もちろんマンチェスターの人たちが街で合唱した映像も心を打つものでしたが、これはフランスのギャルド・レピュブリケーヌがフットボールの試合の前に演奏した様子。イングランドの応援団たちの大合唱が聴けます。歌うことはけして無力ではない。音楽は無力ではない。テレビやネットから流れるうただけではなく、有名人がステージ上で歌い上げるうただけではなく、きみが口ずさむうたにこそ、世界を変えるだけの力がある。別の動画に寄せられていた"All france are with you,England"というコメントにもぐっときました。
posted by youcan at 12:28| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

マニック・マンデーのための覚書

 千石モールという商店街がある。
 商店街の入り口にアーチが立っていて、入ってすぐのところにセカンドビートというレコード屋さんがある。その手前にシンバルというイタリアン・バルがある。この二軒に時折行く以外は、自分にとってもあまり馴染みのない商店街だ。
 少し奥へ進んだところに、定食屋さんがあった。というより、いまもあるかどうか知らないだけで、まだやっているのかもしれない。高校生のときに一回使ったきりの、たぶん何の変哲もない食堂だったと思う。

 高校時代におけるぼくのコミュニケーション能力の欠如については、いまさら恥じ入っても仕方のないことで、体育祭をはじめとして、みんなが輪になって何かをするような学校行事は軒並みボイコットしようとする、なんとも嫌な奴だったのだけれど、一度だけ、みんなの見ている中で、ほんのちょっと活躍したことがある。2年生の文化祭だった。

 隣のクラスにナルセという男子がいた。たしかバスケ部に入っていて、髪の毛はさらさらだし、ユーモアもあって友達は多く、ぼくとは遠い世界に住んでいるように思っていた彼が、ある日ぼくを訪ねてきた。文化祭でバンドをやるので、ベースを弾かないか、という誘いだった。ぼくがベースを持っているということをどこで聞いたのか不思議にも思ったが、「宿題を見せてくれ」以外で誰かから頼られることはまんざらでもなく、快諾した。
 ナルセが集めたメンバーは、確か7人だったと思う。ボーカルが1人、ギターが2人、キーボードボーカルの女子、ドラムは後輩で、ベースがぼく。顔は知っているけれど普段交流することはなく、授業で一緒になるのは体育くらいだけど、体育が大嫌いだったぼくはその50分を空気になりきることしか考えていなかったので、まあほとんど初対面みたいなものだ。何より同じ高校に通うメンバーでバンドをやるというのが面白くて、普段木彫り人形みたいに同じ表情で一日を過ごしていたぼくにしては、精一杯の社交性を見せて参加したつもりだった。

 日曜日、みんなで千石モールに集まって、ボーカルだったヨッチの家で選曲会議をした。選曲は、ガンズアンドローゼスとかエアロスミスとか、ハードロック中心だったと思う。一曲だけキーボードのNがバングルスを歌うことになった(いま思うとあの時代にバングルスというのは凄く渋いし、センスあるチョイスだったのではないか)。ぼくは何でもよかったので―文化祭でソニック・ユースをやったって誰も喜ばないことくらい知っていたし、普段あんまり聴かない曲を演奏するのもまた楽しみだった―相槌ばかり打っていた。演奏曲が決まって、Nとドラムの後輩は帰っていったが、残ったみんなで飯でも食いに行くかということになった。ちょっと時間が遅くなって、ランチタイムはもう過ぎていた。商店街を適当に歩いて、どこか目についた店に入ろうということになり、たまたま空いていた定食屋に入った。
 ぼくはその頃から好き嫌いがひどくて、重いものが食べられなかった。ほぼ一択という感じでざるそばを頼んだ。みんながちょっとびっくりした。定食屋にざるそばがあるんや。お前そんなんでいいんか。うん。みんなに運ばれてきたのは、いかにも定食屋、といった、懐かしい感じのエビフライ定食、とんかつ定食、ハンバーグ定食だった。ざるそばの味は覚えていない。食べながら話したことも他愛のない、さして面白くもなかったことだったように思う。でも、なぜかあの光景は忘れることができない。窓際の4人掛けだった。曇り空、淡い灰色の石畳に跳ね返る光が、狭くて薄暗い店内に差していた。

 それから数回スタジオで練習した。文化祭のステージはまずまずで、みんなで打ち上げにも行った。ドラムの後輩とはその後も数度スタジオやステージで一緒になった(リズム楽器に需要があるのは今も昔も変わらないだろう)けれど、他のメンバーとは再び疎遠になった。ぼくはまた付き合いの悪い、何を考えているのかよくわからない木彫り人形に戻って、千石モールへは卒業まで足を踏み入れることがなかった。

 一昨年の秋、東京で、卒業してから初めてナルセに会った。いまは作曲や編曲を職業にしているのだという。ジャニーズやアニソンなど、大きな仕事もしているようで、とても誇らしく思う。ほかのメンバーのことはわからない。後輩はお父さんがスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドにも参加しているミュージシャンで、本人もスティールパン奏者で生計を立てたいと言っていたから、夢を叶えていてほしい。キーボードのNは摂食障害になったという話で、しばらくしてからあまり学校に来なくなった。数年前に別の友人から、彼女が高校生活で一番楽しかったのはあの文化祭だったと言っていた、という話を聞いた(友人がそれを聞いたのは、さらにずいぶん前なので、もう昔話だ)。高校生離れしたアンニュイな雰囲気の、きれいな女の子だった。
 富山に帰ってきてすぐの正月、友人と飲んだのがシンバルだった。シンバルの山本夫妻は音楽がお好きで、フジロッカーでもあり、お店にはトム・ヨークの似顔絵が飾ってある。以来、折に触れて訪ねるようになって、ワイン二本開けて椅子から転げ落ちたりしている。迷惑をかけっぱなしなのにいつも暖かく迎えてくださる、ありがたいお店だ。奥さんはさっぱりして人懐っこく、全然違ったタイプの女性なのだが、なぜだか時々Nを思い出す。場所が記憶と結びつく力というのはほんとうに面白いものだね。


posted by youcan at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする