2016年01月04日

マニック・マンデーのための覚書

 千石モールという商店街がある。
 商店街の入り口にアーチが立っていて、入ってすぐのところにセカンドビートというレコード屋さんがある。その手前にシンバルというイタリアン・バルがある。この二軒に時折行く以外は、自分にとってもあまり馴染みのない商店街だ。
 少し奥へ進んだところに、定食屋さんがあった。というより、いまもあるかどうか知らないだけで、まだやっているのかもしれない。高校生のときに一回使ったきりの、たぶん何の変哲もない食堂だったと思う。

 高校時代におけるぼくのコミュニケーション能力の欠如については、いまさら恥じ入っても仕方のないことで、体育祭をはじめとして、みんなが輪になって何かをするような学校行事は軒並みボイコットしようとする、なんとも嫌な奴だったのだけれど、一度だけ、みんなの見ている中で、ほんのちょっと活躍したことがある。2年生の文化祭だった。

 隣のクラスにナルセという男子がいた。たしかバスケ部に入っていて、髪の毛はさらさらだし、ユーモアもあって友達は多く、ぼくとは遠い世界に住んでいるように思っていた彼が、ある日ぼくを訪ねてきた。文化祭でバンドをやるので、ベースを弾かないか、という誘いだった。ぼくがベースを持っているということをどこで聞いたのか不思議にも思ったが、「宿題を見せてくれ」以外で誰かから頼られることはまんざらでもなく、快諾した。
 ナルセが集めたメンバーは、確か7人だったと思う。ボーカルが1人、ギターが2人、キーボードボーカルの女子、ドラムは後輩で、ベースがぼく。顔は知っているけれど普段交流することはなく、授業で一緒になるのは体育くらいだけど、体育が大嫌いだったぼくはその50分を空気になりきることしか考えていなかったので、まあほとんど初対面みたいなものだ。何より同じ高校に通うメンバーでバンドをやるというのが面白くて、普段木彫り人形みたいに同じ表情で一日を過ごしていたぼくにしては、精一杯の社交性を見せて参加したつもりだった。

 日曜日、みんなで千石モールに集まって、ボーカルだったヨッチの家で選曲会議をした。選曲は、ガンズアンドローゼスとかエアロスミスとか、ハードロック中心だったと思う。一曲だけキーボードのNがバングルスを歌うことになった(いま思うとあの時代にバングルスというのは凄く渋いし、センスあるチョイスだったのではないか)。ぼくは何でもよかったので―文化祭でソニック・ユースをやったって誰も喜ばないことくらい知っていたし、普段あんまり聴かない曲を演奏するのもまた楽しみだった―相槌ばかり打っていた。演奏曲が決まって、Nとドラムの後輩は帰っていったが、残ったみんなで飯でも食いに行くかということになった。ちょっと時間が遅くなって、ランチタイムはもう過ぎていた。商店街を適当に歩いて、どこか目についた店に入ろうということになり、たまたま空いていた定食屋に入った。
 ぼくはその頃から好き嫌いがひどくて、重いものが食べられなかった。ほぼ一択という感じでざるそばを頼んだ。みんながちょっとびっくりした。定食屋にざるそばがあるんや。お前そんなんでいいんか。うん。みんなに運ばれてきたのは、いかにも定食屋、といった、懐かしい感じのエビフライ定食、とんかつ定食、ハンバーグ定食だった。ざるそばの味は覚えていない。食べながら話したことも他愛のない、さして面白くもなかったことだったように思う。でも、なぜかあの光景は忘れることができない。窓際の4人掛けだった。曇り空、淡い灰色の石畳に跳ね返る光が、狭くて薄暗い店内に差していた。

 それから数回スタジオで練習した。文化祭のステージはまずまずで、みんなで打ち上げにも行った。ドラムの後輩とはその後も数度スタジオやステージで一緒になった(リズム楽器に需要があるのは今も昔も変わらないだろう)けれど、他のメンバーとは再び疎遠になった。ぼくはまた付き合いの悪い、何を考えているのかよくわからない木彫り人形に戻って、千石モールへは卒業まで足を踏み入れることがなかった。

 一昨年の秋、東京で、卒業してから初めてナルセに会った。いまは作曲や編曲を職業にしているのだという。ジャニーズやアニソンなど、大きな仕事もしているようで、とても誇らしく思う。ほかのメンバーのことはわからない。後輩はお父さんがスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドにも参加しているミュージシャンで、本人もスティールパン奏者で生計を立てたいと言っていたから、夢を叶えていてほしい。キーボードのNは摂食障害になったという話で、しばらくしてからあまり学校に来なくなった。数年前に別の友人から、彼女が高校生活で一番楽しかったのはあの文化祭だったと言っていた、という話を聞いた(友人がそれを聞いたのは、さらにずいぶん前なので、もう昔話だ)。高校生離れしたアンニュイな雰囲気の、きれいな女の子だった。
 富山に帰ってきてすぐの正月、友人と飲んだのがシンバルだった。シンバルの山本夫妻は音楽がお好きで、フジロッカーでもあり、お店にはトム・ヨークの似顔絵が飾ってある。以来、折に触れて訪ねるようになって、ワイン二本開けて椅子から転げ落ちたりしている。迷惑をかけっぱなしなのにいつも暖かく迎えてくださる、ありがたいお店だ。奥さんはさっぱりして人懐っこく、全然違ったタイプの女性なのだが、なぜだか時々Nを思い出す。場所が記憶と結びつく力というのはほんとうに面白いものだね。


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2015年08月24日

みずうみ

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 最後に有峰湖に行ったのは小学生のときだったと思う。しかもその湖がどこにあるかも知らず、ただバスに揺られて行った。たしか町内会の行事か何かで、近所の電気屋のおっちゃんに率いられた小学生の一団は湖畔のキャンプ場にテントを張り、カレーを作ってトランプをして一泊し(おっちゃんがつまみに持ってきたさきいかを勝手に食べてしまって怒られた)、ラジオ体操をして帰ってきたのだった。意外にも詳細に覚えているという事実から考えると、それはそれで楽しかったらしい。それでもあの湖に行ったのはそのたった一回だけ、それからの有峰湖は富山県全県地図の右下のほうにある青色の貝ひもでしかなかった。

 東京に住んでいる友人がこちらに遊びに来た。海とか山とか大自然を満喫したいと言ったので、ちょっと思案したあげく有峰へ連れて行くことにした。とりあえず立山のほうへとは決めていたのだけど、早起きできない性分だし、山歩きができるかも不安だったので、車に乗って到達できる一番「奥」へ案内するのがいいと考えたのだ。

 数週間前に寄越したLINEではやたらと落ち込んでいて、これはもう強制的にでも気分転換させるしかないと、それなりに心配して、遊びに来なよと誘ってみたのだけど、到着するなりあっさり「もう大丈夫になった」と言うので、なんだ拍子抜けだなあと心の中でつぶやきつつ、でもまあよかったね、と、あとは共通の知人や音楽の話、とりとめのない会話をしながら2時間のドライブ。有料の林道に入って、一車線の桟道を走って、オレンジ色の天井の灯りもない、真っ暗なトンネルを幾つも抜けて、湖を右手に見ながら展望台まで行ってみた。ダムの資料展示、カモシカの剥製、当時の時代考証、ぼくらのほかには誰も居ない5階建てのビル、展望台といいつつ上ってみればただの屋上、友人はそこからさらに梯子をつかんで出入り口の上、一番高いと ころから湖を見ていた。スコットランドに似てるかなあ、馬鹿言うなよ、そんないいもんじゃないよ。

 なぜか昼寝をしようという話になり、湖と反対側にある芝生のエリアに降りた。バーベキューエリアやフィールドアスレチックゾーンと案内図に書かれてあったそこは、正確には、芝生かと思っていたらちょっと違ったようだ。やわらかい草とコケの仲間とが入り交じって生える(さすが高山地帯)緑の絨毯の上で横になって、1時間ほどだろうか、鳥と虫と木々のざわめき以外ほとんど何の音もしない薄曇り空の下でまどろんだ。

 いま思えば何をしに来たんだろうか、写真なんかでときどき見る、ダムの上を走っていく林道のほうへも廻らずに、昼寝をし、寝起きにアイスクリームを食べ、ぼくらはそれきり満足して帰ってきたのだ。往復4時間かけて!笑われても仕方ないことかもしれない。でも、ひとつ知ったことがある。この世界にはどうやら、聴きとることのできる、そして触れることができる種類の「静けさ」があるらしいのだ。聴くといっても耳で聴くのではなく、触れるといっても指で触れるのではないそれは、言うなればあの、有峰の鈍い陽射しの中にそっと忍ばせてあったように思う。それとも、湖というものは天然の吸音材なのだろうか。十和田湖、諏訪湖、奥琵琶湖、それほど多くの湖を知っているわけではないけれど、そういえば湖のそばで暮らす人たちには、はにかみ屋が多かった気がする。彼らの胸には、いつもあの静けさがとぽん、と沈んでいるのかもしれない。ぼくらの慌ただしい暮らしにも、ときどき湖を補給すれば、もう少し穏やかに生きていけるのかな。
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2014年11月20日

続・バックミラーから落っこちてゆくのは

 久しぶりの投稿。いったいどのくらいの人が読んでくれるか、もう皆目わからなくなってしまったけれど。

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 2014年が明けてすぐ、田舎へ戻ってきた。高校を卒業してから十数年ぶりになる地方都市での暮らし。「こっち帰ってくんがなら、クルマないと生きてけんよ」と言われていた通り、ほとんど自転車と市バスだけで京都市内を移動していた生活に交通革命が起きた。あわてて教習所に通い、オートマ限定で手に入れた若葉マーク。最初のころは国道に乗り入れることさえ恐ろしく、できるだけ運転したくない!と思っていたけれど、ようよう慣れるにつれて、窓の外に流れる田園風景を楽しんだり、回り道して海を見に行ったりするような余裕が芽生えつつある。
 クルマ社会が形成されて以来、地方で生きる人たちが当然のように享受しつづけてきた特権−車窓越しに見る昼下がりの田んぼの、夕暮れの国道の、真夜中の点滅信号の連なりの、なんてことのない空の、圧倒的な美しさ。観光パンフレットにも載ることのない、ありきたりな帰り道の景色が、あまりにも壮麗すぎて思わず路側帯沿いに車を停めてしまうことが、この一年足らずのうちに何度あっただろう。
 さらには、音楽だ。後部座席がいっぱいになるほどCDを持ちこんで、i-tunesからカーナビにどっと曲を流し込んで、ときには大声で一緒に歌ったりしながら車を走らせていると、ある瞬間ふと、スピーカーから流れてくる音楽と、車窓の向こうの風景が、シンクロして見える/聴こえることがある。
 そのときの、何かが迫ってくるような、落ちてくるような感覚を、ことばにすることができるか。中古のスズキ・ジムニーの窓の上での、景色と音楽の運命的な出会いについて、誰かに語ることはできるのか―じつは、ある雑誌からお話をいただいていながら、主に個人的な事情により凍結となってしまった連載企画の卵がある。ループするピアノで幕が開き、「夕暮れ時を二人で走ってゆく」という歌い出しから世界のすべてが動き出す、ぼくの人生を大きく旋回させた35分の大曲の一節が、そのエッセイの主旋律になるはずだった。何千部という紙面を借りて響かせることはまだできていないし、もしかしたらもう永遠にそんな機会は来ないかもしれない、とにかくあいつはもう終わったという声が聞こえ始めたら(まあべつにそう言われてもたいして口惜しくはないけど)、きみは、ただぼくに会いに来ればいい。たとえ聴こえるか聴こえないかのぎりぎりの線上でさえも、<うた>が止むことなんて絶対にないと分かるはずだから。ほら、みやこ落ちではなく、退却でもなく、転進でもなく、ぼくはいまも半分夢の中を隅から隅まで駈けているところなんだ。


◇11月23日(日) 富山 フォルツァ総曲輪・ライブホール
「Rachael Dadd + ICHI Japan Tour 2014」
出演:Rachael Dadd + ICHI / ゆーきゃん
開場 18:30 / 開演 19:30
料金 2,500円 *ドリンク代別

◇12月6日(土)京都 livehouse nano
「mogran'BAR  田中亮太大爆発」
ライブ:吉田ヨウヘイgroup / ゆーきゃん
DJ :田中亮太 / 横地潤一 / 426 / 明和真也 / Tomoh / Hasegawa Tomohiro
VJ:山本和世 / TR3
開場 17:00
料金 2,000円 *ドリンク代別

◇12月20日(土) 池袋 ミュージックオルグ
「my letter 1stアルバム レコ発企画」
出演:my letter / ゆーきゃん / HELLO HAWK / H MOUNTAINS / Taiko Super Kicks
開場 17:30 / 開演 18:00
前売 2,000円 / 当日 2,500円*ドリンク代別
チケット予約:my_letter@excite.co.jp

◇12月29日(月)名古屋 新栄Hunny-Bunny
「ゆーきゃんとそふてろとよっく。」
出演:ゆーきゃん / ソフテロ / YOK.
BGM:TSURU(N2B/Kompis) / ryohei(cafe & bar Drawing)
開場 19:00
チケット 1,500円 *ドリンク代別

◇12月30日(火)京都 livehouse nano
出演:ゆーきゃんaka rui heya band / chori(band)
opening song of the world for you:よしむらひらく
詳細未定

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2013年09月12日

ボロフェスタのこと

 Webマガジン”AMeeT(アミート)”に、JJ(LImited Express(hsa gone?))のインタビュ―が掲載されました。
http://www.ameet.jp/feature/feature_20130904/#page_tabs=0

 AMeeTは「Art Meets Technology」の略。「京都から世界へ」をコンセプトに掲げて、京都で起こっている面白いアートやアーティストをピックアップしています。JJはリミエキのメンバーとして、そしてボロフェスタの代表として、インタビューに答えています。

 ぼくは、ボロフェスタのホームページに、開催に寄せた文章を書きました。
 http://borofesta.ototoy.jp/feature/index.php/about

 文中でもちょっと触れていますが、ぼくらにとって、ボロフェスタは一つの「作品」です。時間をかけて、アイディアを絞って、ユーモアと美学を同じくらい働かせて、議論して、手配して、うまくいったりいかなかったりして、何カ月も試行錯誤し、何百もの時間を費やします。
 ありがたいことに、いろんな人に支えられ(迷惑をかけたと云う方が正確かも)、十二年も続きました。始めた頃には歯牙にもかけられなかった事務所のかたが今では「ボロフェスタ、お誘い光栄です」と云ってくださいます。お客さんにも数千人といった規模で集まっていただけてるようになり、続けてゆくことの重みをひしひしと感じています。
 出演者も豪華、来客も盛況、ということは、つまり、たくさんのお金が動きます。いつも収支表を見てびっくりするくらい。いつか掲示板で「商業主義のクソイベント」という批判をいただいたことがありますが、帳簿上で計上される金額だけを指すなら、そして儲けの有無を根拠にしないなら、まあぎりぎりこいつも「商業」と呼べるのかもしれないですね…(苦笑)

 でも、たとえ規模が大きくなって、季節の名物行事になって、ミュージシャンたちにとっては多少のステータスをもたらすイベントになっっていったとしても、やっぱり譲れないのは、これが自分たちの「表現」なのだということです。

 ボロフェスタの開催期間はたった三日。たったの三日でパーティは終わり、KBSホールはまた何もない平たい床だけになります。あんなに集まったはずのお金も、支払のあとで残る額はたかが知れていて、翌年に向けてプールすることを決めたり、ボランティアスタッフの打ち上げを開いたりするうちに、主催陣の手元に入ってくるものなんてほとんどなくなってしまう。
 どんなにうまく行った年も、たしかにフェスの実績にはなるのでしょうが、ぼくらは「主催アーティスト」であると同時に、いちばんの裏方です。(すくなくともぼく個人ですが)どちらにしろ名声を得たという実感はありません。CDのセールスが伸びるわけではなく、めちゃくちゃライブの集客が増えるわけでもなく、ボロフェスタの制作がなにか別の仕事に繋がるわけでもなく、長い準備期間と狂騒の三日間を終え、一息つこうと座って自分を見てみると、あいかわらず平凡なミュージシャンのまま。

 儚いなあ、と、終わるたびに思います。

 ならば、そんなことを、どうして続けるのでしょう。かたちに残る、たとえばアルバム一枚を一生懸命つくったほうが意味があるんじゃないのか。プロモーション・ツールとしての価値がないことはもうとっくにはっきりしているんじゃないのか。
 うーん。どうやら、ぼくはあの「つくった作品が、また更地に戻る」感覚が好きなようです。
数年前までお世話になっていたある人に―詳しいことは知らないのですが、彼はたしか、テント芝居の設営や大道具として日本中を旅していたひとでした―こんなふうに云われたことがあります。

 ―サーカスやテント芝居がなぜあんなに素敵なのか知ってるか?あれはなんにもないところにある日突然現れて、去っていったあとにはまた何も残っていないから、いいんだよ。

 彼は、またいつかこうも云っていました。

 ―儚いって、ヒトへんにユメって書くだろ。どんなにあっけなくても、確かにそこにヒトがいて、ユメはあったんだよな。

 文字にすると金八先生みたいな空気になりそうですが、でも、大きな焚火の前で、焼酎でへべれけになりながら、ぽつりと呟かれたそのことばは、ほんとうに胸に響くものだったのです。その後、ぼくの不甲斐なさのせいで彼にひどく迷惑をかけてしまうことがあり、それ以来すっかり疎遠になってしまいましたが、いままで人から話されたことばで、いちばん影響を受けたのは、あの酩酊の中のひとことかもしれない。

 おっと。今回のお話は、べつに感傷的になりたくて書いているわけじゃありませんでした。なんにもないところから作り上げたものが形になって、それがたくさんのひとを楽しませたり感動させたりして(JJもインタビューの中で書いているとおり、そこにはお客さんだけではなく、スタッフ、ミュージシャン、応援してくれる街のお店も含まれます)、最後はまたゼロに戻ってゆく…そういうストーリーそのものと、そこに流れ込んでくる様々なユメが、ボロフェスタの大きな魅力(それはいろんなフェスの底に共通して在る魅力かもしれません。ストーリーの展開の仕方がフェスの個性になっている気がします)であり、ぼくにとって離れがたいものなんだろうというということが云いたかったのです。

 9月に入って、準備のために決めなくちゃいけない案件、会いに行かなくちゃいけないひと、まとめなくちゃいけない情報、そのほか考えたり議論したりしなくてはいけないことが飛躍的に増えてきました。今夜は、明日のミーティング用の資料をつくるつもりです。エクセルが一向に使えるようにならないので、あたまが沸きそうになる。それ以外にも、ほんとうに向いてないなと毎年思い知ることがあまりに多いボロフェスタですが、束になってやってくる卑小感と逃げ出したい気持ちを、ちいさな鑿で削るようにして(あるいはみんなに何もかも助けられて)なんとか乗り越えたあとに見える景色は、いかんとも形容しがたい。今年もがんばります。泣きながら。

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2013年05月31日

髪を切るのにうってつけの日

 これは、昔つきあっていた女の子がくれたメールの表題。たぶん、サリンジャーの"A Perfect Day for Bananafish"をもじったのだと思う。

 悼む、という動詞にはどうしてもぴんとこなくて、フェイスブックにはハナムケと書いたんだけどそれもどうも違う気がして、とにかく吉村さんに見せられないから意味があるのかないのかも分からないまま、それでも自己満足だけじゃないってことはほとんど確実な気持ちで、白梅町に最近できたばかりらしい美容院に駆けこんで、パーマの当たってるところと茶色のところを全部切り落としてくださいとお願いして、さくさくと落ちてゆくくるくるの髪を見るたび名残惜しいような爽快なような微妙な気持ちで何枚も写真を撮った。美容師さんは呆れたような共感するような、こちらもまた微妙な目でそれを眺めていた。

 「バナナフィッシュにうってつけの日」の主役は、バナナを食べる魚の話をする。バナナ魚たちはバナナ穴へ飛び込んだとたん行儀が悪くなり、バナナをむさぼり食べて太りすぎてしまい、入った穴からもう戻れずにバナナ熱にかかって死んでしまうそうだ。彼はその話を友人の娘に語って聞かせ、その晩ピストルで自分の頭を撃ち抜いてしまった。バナナフィッシュとは彼のことだったのだろうか。いつかバナナ穴へ入らなくてはならない自分の運命を知っていて、戻れなくなることに耐えられなかったんだろうか。

 ぼくは髪を切っただけだから、それが何か意味づけを必要とするほど大それたことではないし、いくらなんでも感傷的すぎるというものだ。まあ、考え事をするときに髪をくしゃくしゃにする癖がもう役に立たないと知るのはそれなりにショックだったけれど。

 みんなどんどん年をとってゆくわけで、作るものはどんどん色あせるわけで、そんな中でも諦めることなく自分に向かって問いかけと答えを繰り返してゆかなくてはならなくて、この先にも問わねばならない物事と回答期限の迫った白紙の答案用紙がないまぜになって山積みだと知りながらも、とりあえず今日のライブは駅まであの曲とあの曲とあの曲を口ずさみなながら歩いてゆくことだけ決めている。悪い大人の手本は一足先に行ってしまったけれど、これからもたくさんの人に愛され続けるに違いないあの人とあの人の音楽、その後ろからここでもまたひとり、いまだ大人になりきれない中途半端なうたうたいが彼の歌を鼻歌で。
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2013年05月13日

いつか音楽をやめてしまうきみに

 きみはmmmという女の子を覚えているだろうか。ほら、まだサンレインレコードが高円寺にあったころ、ぼくらは彼女の一枚目の作品を受け取ったのだったよ。そのあと達久からめちゃくちゃいい歌うたいがいる、と教えてもらって、そのあと数年して彼女は見汐さんとデュオを組んだりした(サンレインや達久や見汐さんのことは忘れてないよね。職場と同僚なんだから)。
 つまり、ぼくらは彼女が世に出るくらいのころを知っていて(はじめての円盤ジャンボリーのときはとても緊張した、という話も聞いた)、そしてとんとん拍子(に、見えた)で界隈の人たちはmmmの歌のすばらしさに驚嘆するようになり、ぼくらも何度か共演させてもらって、そのたびにいつもかなわないなあと思っていた。あの日のザンパノ(ほら、京都の元田中にあったカフェだよ。にーやんが店主だった!)で、たぶん初めてくらいちゃんと長めの話をして、ちょっと相談めいたこともあって、びっくりしたり共感したり、まあ結局あたりさわりのない、つまんない見解しか言えなかったんだけど、そのあと数か月たって彼女は引退を発表した。
 こないだそのニュース記事をネットで見かけてから、ずっと考えているんだ。あのとき、もっと役に立つ答えをしておけばよかった、とか、次に彼女に会ったらなんて話そうか、とか、いつかまた帰ってくるのを待つことにしようとか、そういう第三者的な思いのいくつかに混じって、ぼんやりとだけど、きみのことをさ。

 きみが、いったい何年先を暮らしているのか、ぼくには皆目見当がつかない。いまのところ来年の一月まではざっくりと予定が入っていたりするから、そのあとだとは思うんだけど、たとえば再来年の今頃にはもうこの手紙を開封してしまっている、なんてことも、万に一つ、ないとも限らない。そんな相手にどうしてこんなことを書こうかと思ったか、というのには、一つには弱気の虫が出たからかもしれない。また一つには今のうちに正直に書く必要があると思ったのかもしれない。

 ことあるごとに、音楽になりたい、と言ってきた。酔っぱらって気分が大きくなったときには、音楽を生きるんだ、詩を生きるんだ、なんて恥ずかしい科白を吐き散らかしたような気もする。けれどこのあいだ、ふと思ってしまったのは、音楽が鳴り止んだ後、ぼくはどうやって生きているんだろうか、ということだ(mmmでさえ――ほら、ぼくよりも確かに軽やかに音楽を呼吸していた彼女でさえ、音楽の後を生きなくてはならないんだから)。つまりその瞬間に、きみが生まれてしまったんだ。生まれてしまったきみを祝福すべきか呪うべきか、まだわからないんだけど、とりあえず挨拶しておかなくちゃ、というわけでこのメッセージが打たれているっていうわけさ。

 彼女が音楽をやめるといった本当の理由を聞いておけばよかったな。きみ(つまりぼく)が音楽をやめた理由は、なんだろう。嫉妬だろうか。疲れたんだろうか。お金のことだろうか。そういえば先週、ばあちゃんがついに寝たきりになったんだ。もう話すこともできないし、目も開けない、食べることがなにより大好きだったのに、もうお粥を口に運ばれて呑み込むくらいしかできなくなってしまった。倒れる直前までぼくのことを心配していて、母親もずいぶん当たられたらしい。癇癪と偏った意見のかたまりのような人だったけれど、ぼくは間違いなくおばあちゃん子だったから、就職も、結婚も、なにひとついいニュースを届けてあげられないままだったのがとても情けなかったよ。いまは何とか持ちこたえているけれど(持ちこたえる、というのは変な表現かもしれないとしても)、この先はこういうことのひとつひとつが、お前はなにをしてきたのだ、と重々しく問いかけてくるんだろうと思う。きみなら分かってくれると思うけど、どうせぼくのことだから、普段はどんな華々しい理想、決然とした覚悟を口にしていても、結局は搦め手から落とされてしまうのかもしれないな。
 ボロフェスタとサンレイン、そのどちらかがなくなるってことも理由になるかも、と思ったりする。どんな状況になっても、どんな暮らし向きになっても、歌をうたうことはやめないだろうと、いまのところ信じてはいるんだけどさ、でも仮に(近い未来の自分が一番信用ならない、というのは実に滑稽だけれど)、イベントオーガナイザーとCDショップ店主とシンガーソングライターという、三つの別々のあり方を無理やりにまとめようとしているバランスがひとたび崩れてしまったら、それでなんとかなると思ってた自分への罰をうんと厳しくしようとか、あるいは自暴自棄とか、やり場のないままの復讐めいた気持ちとかで、なにもかもをゼロにしてしまおうと思ったりするなんてのは、ぼくにすれば、とてもありそうなことだよ。

 まあ、理由はなんでもいいだろう。だって少なくともぼくにはまだ先のことだし、きみにとってはもう過ぎたことだから。そんなことより、さしあたっていまは、きみのことをちょっと聞かせてほしい。

 音楽が鳴り止んで、きみは幸せだろうか。奏でることをやめて、きみはなお音楽を聴くんだろうか。どんな音楽を聴いているのかな。いままでずーっとたずさわってきたような、日本のインディにはまだ興味を持っている?ライブハウスには時々行ったりする?きみがもうおじいちゃんなんだとしたら、そんなやかましい現場からはとっくに足を洗っているかな(だとしたら、まずは長生きできてよかったね、それとも、驚きだね、と言おうか。そして、もしもそんな高齢にも関わらず時々ライブハウスに顔を出すというのであれば、日本も、いつか話したメルボルンみたいになったということかな)。
 CDは売れている?そんなフォーマットはもうとっくに消えてしまった?みんなはいまどんな形で音楽を聴いている?フェスはまだあちこちで開催されている?オーディエンスは自分の耳で確かめている?ミュージシャンは自立している?いや、余計なことを聞いてしまったっかもしれない。きっときみはもうそんなことには興味がないんだろう。でも、音楽から離れたとしたら、きみの楽しみはいったい何が残っているんだろうか、それはとても心配だ。読書と、散歩と、あとはせいぜい美術館くらいだろう。それだけで残りの人生を埋め尽くすことができればいいのだけれど。あ、お酒は控えるんだよ。たぶんいまでさえ相当脳みそは縮んじゃってるに違いないんだから。

 いつか見てろ、と思ってきたのは紛れもない事実だけど、それと同時に、報われる報われないとはそもそも関係のない道をずっと歩いてきたとも思っている。実際、キャリアだけが重なって、ほとんど何もついて来ていない自分に愕然とすることもあるし、友人や後輩たちがどんどん自分を追い越してゆくなあと(いったいそれが何の基準にもとづいているのか、正確には説明できないくせに)寂しさのようなものを感じることもある。でも、これは隣の芝生は青いとか、あのぶどうは酸っぱいとか、いう感情じゃないんだ。むしろ、いつまでも最前線に、地べたに、誤解や無視が信頼と愛と同じくらい混じりあったまなざしの中に、立ち続けることへの奇妙な誇りもあって…うまく言えないんだけど、自分の中だけではっきりしているこの気持ちを、きみはまだわかってくれるだろうか。一体いくつになるまでナイーヴなばかげた生きかたをしてきたのか、と笑うだろうか。これこそが傲慢だ、と思い出して恥ずかしくなるだろうか。ナイーヴで傲慢なのはいまのうちに認めておくよ。それがあちこちで自分自身の足を引っ張ってきたのも。変なことを言うけれど、ぼくは音楽をやめるのはもう怖くなくなったように思う(とは言え、いざやめなくてはいけないときにはものすごい気分になるんだろうけど)。いまだに怖いのは、感受性を失うことだけだ、でも、そもそも感受性を研ぎ澄ましておきたいと思うことでさえ表現のためであるとしたら、きみにとってはそんなことはとっくに重みを失って、もっと別の何か――教養とか、実行力の伴った思いやりとか、そういったことのほうが大事な価値になっているのかもしれない。


 いろいろ書きたいと思っていたはずなんだけど、結局は自分の理屈っぽい愚痴をぶつけるだけに終わってしまった。いちおう、こんなことを昔の自分が言っていたよという意図で残しておくから、読み終わったら消しておいてもらえるだろうか。ただ、やっぱり何度でも繰り返すけれど、ぼくが気になっているのは、音楽が鳴り止んだ後にも生活は残るわけで、その後にもきみが無事生きているのか、暮しているのか、なにかちょっとでも誰かの役に立ったり、世の中のためになったりしているのか、ということだ。まあ、歌うたいより役に立つ生き方なんてたくさんあるだろうから、余計なお世話だといいんだけど。
 それから、最後にひとつ(失礼を覚悟で書くんだけど、自分のことだから大目に見てくれると期待する)。ぼくにとっては、できる限りきみがぼくの人生の続きの中に現れてくれないことが、いちばんの希望だ。でも、もしきみがほんとうに登場し、それがぼくらの望むものではなく、不本意の結果であったとしても、どうか過去を呪わないでほしい。ぼくはぼくの対価を、できるだけいま払っておくつもりだし、ぼくがここで得たり失ったりしたものが、きっときみの容貌や思想に結びついているんだから。後で出会うか出会わないかはおいといて、せいぜい、きみに少しでもいいものを残せるように、がんばるよ。ただしお金や名声はあてにしないでね。それじゃあ―Don't think twice,it's all right.
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2013年04月14日

 ソメイヨシノは散ってしまったけれど、まだしだれ桜や八重桜は咲いている。
 個人的な好みを言うと、あの桜の代名詞になっている木は、ともすれば花をまといすぎて重たく、気の毒にすら見える。細めの、まだ若いしだれ桜などは、葉桜になってもどこか爽やかなたたずまいを残したままで好きだ。

 四月一日、伯父が亡くなった。お通夜と葬儀は、伯父の実家でもある今熊野のお寺で行われた。
 葬儀を終え、火葬場からまたお寺に戻って来た後、奥の座敷でちょっとした会食があった。
 床の間、掛け軸の前に鉢植えの桜が飾ってあった。花はやや青みのかかった白、若葉が花と一緒に枝を飾っている。花と若葉はそれでひとつのペアのような付き方で、その数もほどよく、盥ほどの鉢のから伸びる高さ二十センチほどの姿が、とてもすっきり見えた。
 もっと近づいて眺めたいと膝をすすめたところで、後ろからご住職(伯父のお兄さんにあたる)から声をかけられた。それは、漱石と子規が愛した種類のさくらだ、と。
 この花の色と葉の付き方には、見おぼえがある。千本今出川の南西角に立っている桜の木が、たぶん同じものだ。葬儀が終わってからも、何度もその木の下を通った。しぜん、伯父のことを思いだす。ここ最近は会わなかったが、口ぶり、口癖、声、ぼくがこう言ったら何と答えてくれただろうか。

 もう十年以上前、大山崎の伯父の家に居候させてもらっていたことがある。そのとき伯父はもう糖尿の治療でカロリー制限をしていた。お酒も煙草も止めていたはずだ。カリウムのことも気にしていたので、果物や珈琲でさえ摂取量の制限があったように覚えている。相当に豪快なひとだったので、ああいう摂生は一番つらかったのではないだろうかと想像する。

 あるとき、こんなふうに言われたことがある。おじちゃんな、休みの日はお寺に行くのが好きなんや。庭とか花とか見ながら、ぼーっとな、すんねん。そうするとな、いやなことも忘れてな、気がすっとするんや。

 大山崎には三カ月ほどお世話になった。やがて京都市内の安い部屋に引っ越して、のち、法事や結婚式などの行事以外ではたぶん一度も会わなかったのではないかと思う。いろんな事情が重なったり、多忙なくせに不安定で、並ひととおりではない暮らしの気遅れがあったりしたとはいえ、ずいぶん恩知らずだったと、いまさらながら後悔しているのは確かだ。けれどなぜかそれよりも気がかりなのは、伯父が結局、今年、桜を見ずじまいだったのではないか、ということだ。開花の知らせが伝えられ始めた三月半ばの伯父の病状を知らないからこその無責任な気持ちだとは自覚しているし、生まれつきなのか、間違って育ってしまったのか、不道徳で不謹慎な自分をとことん情けなく思いつつも、やはり、ごめんなさい、という気持ちよりも先に、窓からの三分咲きでも、誰かがお見舞いに持ってきた枝のつぼみのほころびでも、いや、たとえテレビの中であっても、花の便りをぼーっと見ていてくれたらいいのに、という思いが湧いてくるのを消すことができずにいる。

 とあるレーベルの十周年を記念したリリース企画のお話をいただいて(詳しい内容についてはもうじきお伝えできると思う)、水曜、木曜と二日間アバンギルドでレコーディングをした。カヴァー曲をメインに八曲のなかで、古いレパートリーの「桜」という曲をもう一度録った。ファーストではエレクトロニカ風のトラックを友人に付けてもらったいたのを、アコギ一本でやりなおしている。歌詞も最後の二行をを改めた。
 2002年の春に書いてひっそりと歌い始めた「桜」のすぐ後で、J-POPのチャートでも「さくら」「桜」という名曲群のシングルカットたちが嵐(桜だけに吹雪というべきか)のように吹き荒れた。ゆーきゃんの「桜」は、格別キャッチーでもない。ひっそりと佇んだまま、そのうち作者にもあまり歌われなくなって歳月だけが経った。
 それでも、木曜日の朝、久しぶりに最初の三つのコードを鳴らしマイクに歌を入れたとき、この曲は、まだ枯れていなかった。よかった、と思った。

 散り急いだ分だけ
 アスファルトを染めたね
 弱い風 四月の笑い声 あまりにも無邪気すぎた
 目が乾き痛んでも 明日まで咲き誇るこの世界は
 夜明けまで見ていたいね 綺麗ごと並べ立てて、さ
 
 その下に何か埋まっている
 その下に何か埋まっている
 戯れの春を葬るように
 その木には夢が詰まっている

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2013年03月05日

はかまいり

 自分の利益を考えてやったことで、うまくいったためしがない。だいたいが途中でめちゃくちゃになってしまうし、どんなことでも最後には結局だいなしになるか、そのあとで大きなしっぺ返しがくる。きっとバランスをとって、あちらもこちらも立てて丸く収めて…というようなことが下手なのだと思う。
 それでもいつしかまた何かを欲しいなんて思ってしまうのは、懲りてるつもりで懲りてない、学んでるつもりで学んでない、それとも業というやつなのかもしれないが、ともあれ思い知らされた苦い味がまた戻ってくるような出来事は結局起こるもので、そのたびに思うことは、新しく得るよりも失ったものを取り返すほうがはるかに困難だということだ。
 こんなあれこれを、いじいじと考えてみても話す相手はいない。なにしろ問題は自分が仕出かした(あるいは巻き込まれた)過去なのだから、誰に話したって解決の糸口ははじめからない。
 話す相手がないときには、どうするか。ほんとうにどうしようもなくなったときには、墓参りに行くのがいいと思う。

 ぼくは、信心深いほうではない。夏が来るたびラジオ体操のあとにお寺に上がって読経させられたり、灌仏会も地蔵盆もおみこしも、地域の神事仏事はほぼ皆勤賞だったりしたけれど、他生も、運気も、あまり信じてはいない(あまり、というのは確実にあるともないとも言えないから)。それでも、墓参りには行く。墓参りに行って、墓の中にいるはずの人にこころのなかで話しかける。あまり細かくは説明しない。手短に、でも、ありのままに。それは報告といったほうがいいのかもしれない。

 大塚という、実家から歩いて30分ほどの集落のお寺に曾祖父母のお墓がある。いや、正確には、まだある。もうすぐ大叔父つまり祖母の弟さんが名古屋に引き取ってしまうという話があって、正月にそれを聞いたとき、もう墓参はできなくなってしまうかもしれないと思ったけれど、幸いにも今日、行くことができた。

 曾祖父の家紋は、木瓜だ。百姓紋とも呼ばれることがあるそうで、越前越中越後あたりの浄土真宗のうちにはよくある家紋らしい。たしかにそのお寺の裏に並ぶお墓たちに刻まれた紋は、若林さんも高井さんも、木瓜ばかりだった。そのなかから「坪田」というお墓を探し(方向音痴で、何度来ても正確な場所を覚えられない)、二つ、手を合わせる。花やろうそくを買ってきたらよかったなあと思うけれど、いつも忘れてしまうんだ。
 曾祖父母が眠っているお墓はまだ平成四年に大叔父の手で建て替えられている。まだ新しいツヤを保っている御影石は、冬の空気の中でより青黒さを増しているように見えた。夕日がずいぶんと傾いてちょうどお墓の後ろに太陽が落ちてゆく。普段は目を閉じて手を合わせるのだけれど、今日は「累代ノ墓」という文字に視線を据えたままにしていた。ひんやりした斜陽が目を刺して、視線をぼやけさせてゆく。何の変哲もない農村の夕方にこんな神秘的な一瞬があるのだということに驚きながら、いっそ何か聞こえてほしいと思うけれど、当然ぼくには聞こえっこない。

 しばらく手を合わせて、ひさしぶりに念仏を唱えてみて、また来ますと言い残して墓地を出た。国道を越えて、田んぼをまた渡ってゆくときに、けれどぼくは曾祖母が話してくれたことを、ひとつひとつ思い出せそうな気がしていた。物心つくまえに亡くなってしまった曾祖父は別にして、学校帰りによく立ち寄った家で聞かされた曾祖母の茶飲み話は自分の中にすっかり根を下ろしていたようだ。普段は思い出すことも少ないけれど、お墓の前に立ってみると、夫の苦労話も夫に苦労させられた話も、孫(つまり父)を背負って医者まで駈けた話も、庭の手入れの仕方まで、その笑い顔さえもがそのままに、脳裏の引き出しから飛び出してくるのだった。
 だいたい曾祖母と曾孫の関係とはそういうものだと思うのだけど、ぼくは彼女についぞ相談などしたことがなかった。書初めのあとに書いた習字を見せに行く(一番目は学校に提出するから、二番目を見せることになる)のと、学期の終わりに通信簿を見せに行くのはお決まりではあったが。そのときにも上手に書けたとか、よくできましたとかなんとか、一通りの褒め言葉のあとはすぐに取り留めのない話に移ってしまうのが常だった。あれらの話の意味や教訓を考えたことはない。彼女もただ話したいから話しただけだろう。でも、その話しっぷりは面白かった。いま思い出してもなかなかのストーリーテラーだったのではないかと思う(そういや昔は「話す人」自体がメディアだったんだろうな。だからじいちゃんばあちゃんの話はみんな面白いんだ)。  

 畦道を歩きながら、頭の中で彼女の話を反芻した。その声の抑揚を頭の中でもう一度追いかけてゆくと、だんだんと彼女の語りのスタイルや、好んで取り上げたテーマ、そして物事についての考え方がわかるような気がした。それがどんなものかはここでは書く必要がないとして、ようやく実家のある集落へ戻ってきた頃にふと思ったことがある。曾祖母の話に関係あるような、ないようなことー
 たとえば、卑怯に振る舞えると知っているからこそ誠実さを大切にしなくてはならない。妬みがあると知っているからこそ妬みのない場所を目指さなくてはならない。たとえ罰だとしても因果応報があるほうが不条理だけの世の中よりも幾分かましである。過去は取り戻せないが、過去を語ることはできる。そして死者の声を聴くことができないからこそ、わたしたちは死者の声を聴かなくてはならない。 そんなこと言われてもわたしにはわからんわー、という声が聞こえる気もするけれど、ひいばあちゃん、あなたが言っているのはたぶんそういうことなんだろうと勝手に思いました。名古屋に引っ越す前にもう一度会いに行きますね。
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2013年01月01日

或る翼に

 小さなころ、斉藤隆介というひとのお話が好きで、全集を買ってもらって読んだ。『モチモチの木』や『ベロ出しチョンマ』の作者といえば、分かる人もいるだろうか。モチモチの木は教科書にも載っていたような記憶がある。

 A4ノートよりも大きな本で、それなりにかさばったし重みもあったのだけれど、よっぽど気に入っていたのだろう、あちこちに持って行って読んだ(なぜか遠足のリュックにも入れていた)。随分汚したりもした。一冊全部を読み切らないのに別の巻を読み始めて、読み散らかしたりもした。その結果、全集は実家のあちこちに(応接間や納屋にさえ)放置されているらしい。ふと読み返したくなって母親に尋ねてみたのだが、十冊ほどあったうちの一部しか見つからなかった。でも一冊は姪のところに行っているらしく、それはそれでよいことだと思う。
 何度も何度も読んだので、話の筋はだいたい覚えているし、印象的な一行やセリフがふと頭をよぎれば、歩きながら涙があふれてしまったりもする。夜のうちはいいのだけれど、人ごみの中でそういうことがあるととても恥ずかしい。

 ひばりの出てくるお話が二篇ある。一篇はずばり『ひばりの矢』というもので、横暴な黒雲おやじがひばりたちの巣をふんづけるので、憤慨した若いひばり「いちろうじ」がついに立ちあがり矢を射かけるのだけど、すぐに叩き潰されて、それでもめげずにじろうじ、さぶろうじ、と挑戦者がつづき...というお話。もうひとつの短編は『天の笛』という題で、終わることのない冬に覆われてしまった世界を何とかしようと、ひばりが分厚い雲を突き破って太陽のかけらを取りに行く...というストーリーだ。前者はちょっと人懐っこい(実はシリアスなテーマを扱っているのだけれど)語り口がひどく魅力的で、後者は実にけなげで、痛切で、美しい物語。
 道徳の教科書はあざとすぎて嫌いだったけれど、なぜかこの人の書くものは、たとえそこに啓蒙的なものがちらついても気にならなかった。それが「物語」として充分に美しく、強く、面白かったからなのだろうが、それはさておこう。とにかく、このふたつのひばりの物語はいつのまにか、ぼくの書くものの主要なモチーフになっている(いちばん直接なのはシグナレスの”parade”で「飛び立つひばりのように 太陽のかけらをくちびるに」とある。それ以外にも彼ら=ひばりたちのことを下敷きにした歌詞は結構多い。物好きな方は探してみてください)。

 で、新しく書いた曲にもまた、ひばりが現れた。

 前日の夕方に降りだした冷たい雨が夜半を過ぎて雪に変わり、明け方すこし積もって、やがて止んだ。あくる日は寒いけれどよく晴れていた。雪は解けた。冬の太陽はあまり高くまで上がらない。西陣のとある路地に入ると、濡れた舗道が南からの陽光を跳ね返し、まるで光の上を歩いているようだった。そのとき一つの響きが、ふわりと降って来た。事務所へ向かい、仕事も約束もそっちのけでギターを抱えて、リフレインに変えた(確かめてみると、それはオープンDチューニングだった)。メロディと歌詞は一緒に出てきた。構成はAメロとサビだけ、二番までしかない簡単な曲になった。三年前のぼくなら、絶対書かないようなやつだ。
 ひばりという単語は、出てきていない。でも、これはいちろうじとじろうじとさぶろうじのことで、太陽に焼け死んだひばりのことで、こないだ久しぶりに会った土門(結婚して今は野田か)の押していたベビーカーのことで、姪(すみれ)と甥(コウスケ)のことで、酒場で会って原口統三の『二十歳のエチュード』を貸したバヤシという青年のことで、そしてぼく自身やきみのことで――いや、これ以上書くと野暮になるからやめておこう。

 大晦日、正確には年が明けて最初のステージ、アバンギルドでこのうたを歌った。それまでにずいぶん飲んでいたし、夜が深すぎたこともあってサビの出だしの高い部分がちょっとフラットしてしまったのが反省点。けれど、2013年のはじまりにこの詩を歌えたことはとても意味のあることだと思っている。もっとブラッシュアップして、早く一人前の曲に仕上げたいな。

「或る翼に」

雪どけに濡れた細い石畳を覆い尽くす
あの光の中を歩こう
手袋をなくしてかじかんだ指も
いまはただ伸ばして 光の海に浸そう

いつかはおまえもちいさな翼で
嵐の空を飛ぶ日が来るだろう

雲の切れ間めがけて投げつけたことばたち
叩き落とされても春を待つ種に変われ

目覚めの季節に眠ってしまった
いつかはおまえもちいさな翼で
今日より 明日より 未来の空を
眩いうたなど紡いでゆくだろう


 ニュアンスが冬の終わりっぽくも思えるのは「雪どけ」という単語で始まるからだろうか。春を待つ曲が多いように思われるがその実、冬はけっこう好きだったりする。アバンギルドではもう一曲「ルウナ」という新曲もやってみた。いままで書いたものの中でたぶんいちばん音程が高い。これも冬の夜道を歩いていて、できた。ぼくの創作の神経は、歩調と同じ速さで鼓動しているのかもしれない。

 ちなみに、アバンギルドの後はKYOTO MUSEに行き、午前4時にB’zの”ALONE”を短パンと袖を切り落としたTシャツ姿で熱唱する、というスカムなステージを披露しました。ピアノを弾いてくれた植木くんありがとう。最後は頼りになるミュージシャンたちが飛び入りでバンド編成になり、大団円で終わるという謎の展開。2013年は(も)愉快な年にしたいです。

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2012年11月07日

あかるい部屋 補遺

 リリースからもうすぐひと月、『あかるい部屋』というアルバムについて、書きたいと思っている。書きたいと思っているのだけど、何度やっても冗長で自慢たらしい文章になってしまうので、困っている。困っているところに、ライブのついでで名古屋のCD屋さんへあいさつに行ったら「全然売れてないじゃないですか!もっと頑張んなきゃだめですよ」と叱咤をいただいてしまった。自己満足してる場合じゃないということか。

 ちなみに、このアルバムを知人に聴かせると、ほとんど決まって「売れないと思う。地味だから。でも、よく聴くとすごく良い」という感想が返ってくる。ちぇっ。なんでそんなことを悪意もなくむしろ誉めるような言い方で言うんだろう。それを正しい評価だと思う自分も馬鹿馬鹿しい。
 わざと地味にしようなんてことは思わなかったけれど、今回のテーマは「普通」だったことは確かだ。曲を書くのも普通にやった。アレンジもメンバー任せだ。プロダクションについても奇をてらったことは何もしていない―でも、あの音量で、全員で一発録音したのは、チャレンジであるといえば大きなチャレンジだった。みんなこの小さい声を、モニターも無しでよく聴きとれたものだ。そしてみんな、めちゃくちゃにプレイが良い。難しいことなんてなにひとつしていない、まさに「普通」の素敵さは、田代くんと森ゆにさんとりっきーと玄さんの素敵さなのだと思う。

 音質については、生々しいという評もあるけれど、多少はこだわっている。玄さんもぼくもまずは「音圧をあげない」ということで一致していて、そのなかで空気の鳴りを生かし、いちばん良く声が聴こえるイコライジングを探し、音のばらつきを整え、コンプ感をちょっとだけ出して、という作業を繰り返した。玄さんは、上手、耳がいい、とかいう以前に「うたが好きな人」なんだと思う。うたが好きな人にしか見えてこない景色があって、それを掘り出してくるセンスとスキルがある。録音からマスタリングまで、全部を通して任せてみて、ぼくのぼんやり見ている世界の質感ととても近いのに驚いた。世代が同じだからというのもあるのかな。

 そういえば、ジャケットに使われている写真も、玄さんがiphoneで撮ってくれた。映っているのは、ヘッドフォンをしているので、もしゃもしゃの髪が小さくなっているけれど、ぼくだ。
 あの白州のスタジオは、じつは、もう無い。『あかるい部屋』を録音してほどなく、大家さんが破産して、競売に掛けられてしまったそうだ。まだ設備が整う前に、試験的に『あかるい部屋』を録ったので、まさに幻のスタジオ・キャメルハウス作、というわけ。とても魅力的な鳴りを備えた部屋だったので、残念だけれど...

 あちこちで指摘される通り、タイトルは、バルトの本からなのだけれど、もういまとなっては何でもいいというか、ただこの響きが圧倒的に好きだから、といったほうがいいかもしれない。先日のインタビューでも偉そうに「バルトはね...」とか蘊蓄を垂れたふりをして、ものすごく後悔している。正直に言うとバルトなんて、ぼくに理解できているはずがない。でも、あの本からは、とてもロマンチックでセンチメンタルで、そして必死な何かが伝わって来た。考えることと書くことが生きることと同値の人間が、喪失というもの対してに本気で向き合った記録だと思っている。それだけを言えばよかったんだけど、見栄とは怖ろしいものだ。
 とりあえずあの世で会えたら、このアルバムを渡したいと思っている(同じところに行けるかは分からないけど)。

  収録曲については一言ずつ触れる。「太陽」は高円寺駅前の風景だったのが、新宿アルタ前でのいとうせいこうさんのアジテーションを聴いたり(あの有名な「デモ隊の諸君、きみたちは路上の花だ」というやつ)、官邸前抗議に行ったりする中で変わっていった。「smalltown,smalldawn」は北盛岡の歌。何かの本で読んだ、上代では「愛しい」という文字にも「かなしい」という読みを充てていた、という記事にも触発されている。「0764」は呉羽駅と姪と甥のこと。0764は富山市の一部に昔使われていた局番。「雪の朝」は(これが一番古い)京都市内にまだ30cmも雪の積もるころに書いた曲。「わすれもの」は春の訪れと失恋とミサワホームのショウルームに並ぶミッフィーにいついて。「最後の朝顔」はガロリンズのよしえさんに捧げた。「ウルトラマリン日和」は2010年に書いた詩を推敲し直したもの。我ながら予言めいていてどきりとした。「611」は6月11日雨の東京都中野区鷺ノ宮のお話。どの曲にも背景と思い入れがある、と書いてみたらなんだかもっとたくさんの人に聴いてもらいたくなってきた。こんな地味なアルバムを「いいですね!」と言って出してくれた術ノ穴への恩返しのためにも、やっぱり頑張らないと、なあ。
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2012年09月01日

たがみせんせい

「たがみせんせい」という人がいた。「田神」なのか「田上」なのか、それとも別の綴りだったのか、今となってはわからない。

「たがみせんせい」は、呉羽駅前を横切る通りから三分ほどのところに診療所を構えていた。診療所といっても、普通の家と同じつくりの玄関、その先に板張りの床の待合室、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、今だったらかえってお洒落ぶったカフェのフロアのようにも見えたかもしれないが、その当時は権威も瀟洒もなんにも感じさせない、かろうじて消毒液の匂いとなんだかよくわからないホルマリン漬けの一つ二つがお医者さんの雰囲気をにじませているだけのただの部屋、その向こうに「たがみせんせい」の診察室があった。

「たがみせんせい」の椅子は、びっくりするくらいぎしぎし鳴った。待合室で絵本を読んでいるときも(たしかレオ・レオニの本がたくさんあったような気がする。ぼくはレオ・レオニが好きで、家でもしょっちゅう読んでいたが、「たがみせんせい」が好きだった理由には、あのレオ・レオニ蔵書も多分に含まれていたはずだ)、「たがみせんせい」が振りかえった、とか、立ち上がった、とか、そんな一挙一動を椅子のぎしぎしが伝えてきた。三,四回ぎしぎしいえば、だいたいひとりの診察が終わる。甘い水薬をもらえそうな風邪のときはなんとなく楽しみに、痛い注射(「たがみせんせい」の注射は、なぜかものすごく大きくて痛かった。だから、注射をされそうな予感がするときには、祖母にせがんで「いわきせんせい」に行きたい、と嘆願したりしたのだ)のときは大いなる恐怖を持って、ぼくはぎしぎしがあと何回鳴るのかを数えていた。

「たがみせんせい」の顔については、もう記憶は曖昧になってしまった。真ん中は禿げあがり、白いぼさぼさが側面から伸びていて、バック・トゥー・ザ・フューチャーのドクにも似ていたような気がするけれど、それは後からのこじつけかもしれない。さらにそれ以外の外見についてはますますぼんやりとしていて、にもかかわらずぼくが「たがみせんせい」のことを昨日会ったかのように思いだせるその理由は、その声だった。

かれは、患者を診察室に招くとき、大きな声でその名を呼んだ。看護婦さんではなく、自分自身で、大きな、ひび割れたしわがれた声をあげて、患者をひとりひとり、その住んでいる集落(くれはえんの、やまもとさーん!!!)や、仕事(こばやししょうてんの、おばあちゃーん!!)など、何らかの所属を示す冠詞を付けて呼び込んでいた。そのたびに椅子はぎしぎし鳴った。
ぼくは、はじめ「まどかようちえんの、ゆうきくーん!!!」と呼ばれていた(もちろんぎしぎし込み)。風邪をよくひくこどもだったので、毎月はかならず「たがみせんせい」に会いに行った。それは医者に診てもらうというのとは違って、まさに「たがみせんせいに会いに行く」という書き方しかできないような感覚だった。祖母によれば、ぼくはまるでお菓子をねだるようにして、水薬ください、などと言っていたそうだ。「まどかようちえんの」と呼ばれるのがとくに好きだったように記憶している。私はきみを覚えているよ、と言ってくれているようで、それが嬉しかったのだろう。みんなに冠詞をつけて呼んでいたのだから、同じように感じていたこどもたちも多かったはずだ。
 水薬は甘くておいしかったし、それでもだめなときは注射と粉薬だった。注射はもちろんのこと、粉薬も本当に苦くて、いやだった。けれど実際よく効いた。たった一度、薬でも注射でも熱が下がらず、下痢が止まらないことがあったが、そのときは入院した――厳密には入院する部屋などなかったので、診療所の二階、つまり「たがみせんせい」の家の一部屋を借りて寝込んだ。何の変哲もない畳の部屋だったけれど、あの襖、あの窓枠、あの天井、ふわふわした気分の中で差し込んできた午前の陽射、そして自分から漂ってくる熱の匂い、それらのことは今でも何故かはっきりと思いだせる。もちろんお尻に打たれた特大の注射も。

 やがて呼び名が「ながおかしょうがっこうの、ゆうきくーん!!!」に変わった。「たがみせんせい」は校医だった。けれど、診療所は小学校の校区外にあったので、他の児童はあまりなじみがないようだった(みんな「いわきせんせいのとこ」へ行っていた)。健康診断のときなど、「たがみせんせい」が学校へやってくるとき、ぼくは密かな優越感を覚えた。このひとは、ぼくを覚えている。「たがみせんせい」は、学校ではぼくの名前を呼ばない。けれど、ぼくはあなたを知っている。もしかするとぼくは「ながおかしょうがっこう」で「たがみせんせい」を知る唯一の人間なのかもしれない!勝手に「たがみせんせい」と秘密を分け合っている気持ちになったぼくは、友達に何度も「あのひと、知ってる?」と聞こうとして、思いとどまるのに必死だった(こういう心の動きをどうして記憶しているのか、それが不思議でならない)。

 三年生になってしばらくだったと思う。「たがみせんせい」は、亡くなってしまった。死因は知らない。お酒が好きだったと祖母が言っていたのを覚えているので、脳卒中だったのだろうか。お子さんがいらっしゃるけれど、別のところで診療所を開いているので、戻ってはこないだろう、ということも聞いたような気がする。ともあれ、やがて「くれはちゅうがっこうの、ゆうきくーん!!!」と呼ばれるようになるのだとぼんやり思っていたぼくの思いこみは永遠に実現しないことになった。風邪をひくと、みんなと同じ「いわきせんせい」のところへ行くようになり、「いわきせんせい」は注射を打たない人だったので、それ以来、予防接種と献血と麻酔を除いて、ぼくの注射人生は終わってしまった。

 今年のお盆に帰省したとき、呉羽駅から実家まであの通りを歩いた。「たがみせんせい」の診療所があったところは駐車場になっていた。道路より少し高くなって、階段を何段か上ってゆくような作りだったと記憶していたのに、駐車場はまったく道路と同じ平面上にあった。ちいさな診療所だったと思っていたのに、意外と広かった。
実家に帰り、そのことを話すと、父は笑った――診療所が駐車場になってから、もう二十年近く経つのに、いまさら何を驚いているのか、と。実際そうだった。ぼくはあの道を通って高校へ通っていたはずだったし、中学から高校卒業まで行きつけの床屋は診療所のすぐ斜向かいにあったのだ。今頃になってあの駐車場が気になりだすのは、あまりにも滑稽だった。
 ただ、いまは自分の無頓着をあれこれ言うつもりはない。あの、明け方の空っぽの駐車場の前で「たがみせんせい」の記憶がぼくのところに戻って来た、そのことを書きたいと思う。あのぎしぎしも、二階の映像も、健康診断の優越感も、もう会えないんだ、さみしいな、と思ったことも(ひとの死という出来事に直面したのは、曾祖父以来二回目だった)。

 さらに付け加えておくと、それは全部「たがみせんせい」の声が連れてきた―あの駐車場に落ちていた「ながおかしょうがっこうの、ゆうきくーん!!!」をきっかけに、一度にすべてが戻って来たのだ。もう聞くことのできない声。だがそれは、なくなったのではない。きっと今でもどこかに、その場所に残っていて、ふとしたきっかけで、耳の奥にそっとしまわれていたものたちを一度に引っ張りだす。

 声は不滅だ。あらゆるところに声が残っている。声に質量と体積がなくてよかったと思う。

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2012年04月26日

 葉のたくさんついた花が、すきだ。

 たとえば葉桜。満開のソメイヨシノは確かに華やかだけれど、花があまりにぽってりとして、枝に重みがかかりすぎているように見え、少し可哀想にもなる。花が半分ほど落ちて側溝に花弁が積り、枝に残った-とはいえすぐに去ってしまうはずの花と、萌え出したばかりの若い黄緑色の葉が混じるころの色合いが、いちばん自然に見えるのだ。
 もうすこし言えば、枝垂れ桜の葉桜がじつにすばらしい。どうして枝垂れなくてはならなかったのかは知らないけれど、地球の重みに沿って枝を垂らす木に顔をのぞかせる新緑は、まさにいのちが「生まれ、そだつ」のだということを教えてくれているように思う。いや、これは言い過ぎか。でも本当にきれいなのだ。少なくとも毎日、帰り道を20分ばかり遠回りするくらいの価値はあると思っている。


 何気なく全体を指して「花」ということが多いけれど、美しさを担保するのは、じつは花そのものでもなく枝や茎や葉だったりする。花だけにフォーカスを当てたオキーフの絵も嫌いではないが、あれをただ「美しい」」と言いきることにはやはり抵抗がある。



 月曜日は、鍵盤の岡村ちゃんの誕生日だった。
 メトロに向かう途中の花屋さんで、彼女に贈るための花を買った。フレンドリーながら自分のペースで会話を勧めてゆくおばあちゃん店主と、年のころ40がらみの体格の良い息子さんが相談に乗ってくれた。いまの花か?、今の花といえば山吹やな。あと誕生日やったらバラ入れといたら間違いないわ。リボンはどうしとく?お友達はかわいらしい子か?きれいな子か?山吹はお洒落な感じになるから、しゅっとした色にしといたほうがええなあ。水色?でもとってつけたようになるで。でも、ちょっと変わった感じにしたいんか?わかった、ほな、息子に選んでもらうわ。


 ほんでなあ、おにいちゃん、長さはどのくらいで切っとこ?長めか?そうやなあ、山吹はあんまり切らんほうがええわ。


 出来上がった花束は、本数こそ少なかったが、ちいさな葉とちいさな花(ほんとうに山吹色だった)をつけた山吹がきれいなアーチ状を描き、濃いめの色みのバラ、群青色の包み、春の街の空にとてもよく映えた。右手で根本を持ち、左手で抱えるようにして鴨川を渡るとき、なぜだか晴れがましい気持ちになった。

 岡村ちゃんは大阪から何本かの電車を乗り継いでメトロへ来ている。鍵盤を背負っての移動なので、花を渡しても荷物になるだけかと気がかりでもあった。でも、なんといっても恋人の誕生日だ。今日はきっと彼氏も観に来るに違いないから、手分けして持って帰ってもらおう、という予想の上で選んだ贈り物。びっくりする岡村ちゃん(まさかぼくから花をもらうなんて思いもしなかっただろう)を脇目に、わざとらしいくらい澄ました顔をしていた自分のことを我ながら意地悪だとも思ったのだけれど―そののち、家に帰って考えるに、いくら大事な友人だからといっても、あそこではやはり彼氏を立てなくちゃならなかったかもなあと、それまでの得意げな気分はどこやら、気配りの出来ない差し出がましさに反省。贈り物というのは難しいと痛感させられた。


 ただ、それでもハッピーバースデーには花が一番いいという意見は揺らいでいない。花束を持って誰かを祝いに行くとき、自然と背筋が伸びるように思うのは、きっと僕だけではないはず。食べるためとか飾るためとかを差し置いて、「喜ばせる」といいうシンプルな目的に特化しているからだろうか。あとは、花は意外とリーズナブルで、そのうえいつまでも場所をとって使い道に困るという心配のないのも、大事なポイントかもしれない。


 さて、いつの間にかこんな時間。帰り道は、すっかり花の落ちて緑だけになった枝垂れ桜の下を歩くとしようか。
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2011年10月13日

2011年10月12日

 きょうは『ロータリー・ソングズ』の発売日でした。

 今作のリリースにあたっては「七年ぶりのソロアルバム」といううたい文句をレーベルも流通も各媒体も使っていますが、その「七」という数字をタワーレコードで目にして、われながら驚きました。
 
 なにしろ、そんなにも長い間、うたい続けるとは思いもよらなかったのです。ファースト『ひかり』を出すまでにもずいぶんと時間がかかりましたから、足かけ十五年?ほどは「うた」と格闘し続けてきたんじゃないかと思います。いや、初めて詩を書いて、曲にして、録音までしてみたのが十四歳のときですから、そこから数えると、もっとか。

 そのあいだに、「うた」をロストしたことは、何度でもあります。あたまのなかで音楽が鳴らなくなったことも、あらゆる音符に無関心になってしまったことも、重力が地上のすべてのものを縛り付けるように、思うように自分の声が出せなくなったことも、あります(ちっとも自慢することではありませんが)。

 きっと、ぼくは「シンガー」ではありません―シンガーソングライター、という肩書を使っているくせに。生まれついて歌に選ばれて、祝福されてきたわけでは決してないのです(そればかりか、誤解を恐れずに書くと、ある時期、たしかに歌は呪いそのものでさえあったかもしれません)。にもかかわらず、「うた」がぼくのライフワークであり続けてきたことは、ひとつにはそれ自体の大きな魔力と引力でもあり、もうひとつにはぼくが「うた」に押し潰されたり跳ね飛ばされたりしないように支えてくれたた、たくさんの仲間たち―お客さんも含めて―のおかげだと思っています(名前を挙げ出すとキリがないので、ここでは割愛させてください)。

 このアルバムは、あちこちですでにお話ししていますが、大田区下丸子にあった高橋健太郎さんのご実家が取り壊される、その一週間ほど前に、録音されました。きっかけはこのブログと、健太郎さんのmixi日記だったと思います(まだmixiが全盛だったころに始まった録音ということにも、なんだか時の流れを感じる…)。

 あくまでひとつの記録、記念、記憶として録りはじめ、ぼくが京都に戻ったあとにはほとんどお蔵入りにすらなっていたものが、あの真冬のWHOOPEESで、FRAGMENTのおふたりに会ったことをきっかけにして掘り起こされ、エマーソンさんや田代君、見汐さん、そしてメロウ君の力を借りて、とうとう世に出ることになりました。それはとても幸運なことでしたが、ぼくにとってというよりも、歌にとってというべきでしょう。発し手さえもが、誰にも聴かれなくてもよいと思っていた声―それが、質素ながらも素晴らしい衣装を着せられて、窓の向こうに飛んで行けるのです。感謝のことばは、なにより皆に直接、個別に伝えなくてはなりませんが、まずはこの場を借りてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。

 この作品が、どんなひとに、どれだけの人に聴かれ、愛され、また見過ごされ、飽きられてしまうのか―それを思うと、楽しみでもあり、恐ろしくもあります。さっき母から電話がかかってきて、彼女は「あいかわらず歌詞がよくわからんねえ」とひとこと。国語の先生だった女性に歌詞のダメだしをもらうのですから、先が知れてるような気もしますが。

 ただ、ここを読んでくださっている奇特な方が、もしどこかで『ロータリー・ソングズ』を手にするようなことがあり、なおかつまた七年先に、さらには何十年もずっと先に、もう一度ふと思い出して、あ、また聴いてよう、などと思っていただける瞬間があれば、そのときこそ、きっとこの作品の意味が成就するような、そんなイメージは抱いています。
 それはある意味とても贅沢な願いごとですが、どのみち「音」は、そのままにしておけば空気に消えてしまうだけで、それを第一義的にパッケージするのは「作品」。そして最終的にそれが貯蔵されるのは「記憶」。だから、音を練り、詩を磨いて、やっと出来あがったこのミニアルバムが、ほんの少しでも聴いてくれる人のこころの記録紙に音符とことばを残してくれることを願っても、そんなに贅沢ではありませんよね。



 ちなみにこれは、ほぼ十年ぶりに顔をまともに出したPVです(昔、和車が録ってくれた「post coda」以来。そのときは鴨川沿いだった)。撮影は代々木公園、監督はParanelくん、出演は午後の公園を楽しむ皆さん、FRAGMENTのクッシーさんも友情出演してくれました。とても気持ちのいい日だったと覚えています。

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2011年09月14日

Wild Thing's Arm

遠い風の匂いが一瞬 わたしたちを捉える
雷鳴 そして激しい雨 草原に吠える夏の暗い影

水かきを持たない陸の獣たちが獲物の夢を見る大洪水の前夜
大切なものがいったい何だったのか かれらは果たして覚えているだろうか
あるいは ついぞ知ることもなく 季節の深い袖に沈んでしまうのかもしれないがー

それでも言わなければらない

わたしがきみに贈るのは 金の首飾りではなく 飼いならされた日々の首輪でもなく
たとえば 燃えるようなたてがみの獅子が貪欲に今日を追いかけたその眼差し
たとえば 追いすがる豹を突き放し 明日に辿りつくまで走ったガゼルの足音
たとえば 分厚く立ちこめる雨雲の向こう側 やがて一斉に芽吹くだろう あの青い空の胞子たち
首に掛けるのものは ときに早く ときに静かに波打つ 自分の呼吸ひとつでよい

さあ それらすべてを携えて ゆけ
嵐を越え 夜を越えて あの美しい朝焼けに頬を染めるまで
きみが腕を横たえる場所は いまからこのちっぽけな牧場の外になる
たとえどんな危険も 恐れも 生きることの魅力には抗えないのだから


(9/3 京都METROにてSchroeder-Headz "Wild Thing's Arm"に載せて読んだ詩を、すこし推敲しました)
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2011年08月26日

セブン

 西洞院釜座通の「セブン」という喫茶店がとても好きで、わりと頻繁に通っていた。

 背の高いおじいちゃんがひとりでやっているお店で、メニューはコーヒーとカフェオレしかない。そのかわり、かならずキャンディ型のチョコレートが二つ、ついてきた。気取らない味が好きで、打ち合わせのときは大体この店を使った。
 なんとなく店主も覚えてくれたのか、「干し柿たべるか?」とか、「煎餅、あげるわ」とか、ボーナスのお茶請けを(けっしてコーヒーに合うとは限らないものまで)くれた。

 今年に入って、店主がなくなった。脳梗塞だか心筋梗塞だか、急に倒れたらしい。驚いた。前日まで営業をしていて、たしかその日曜日には雑誌か何かの撮影が来ていて、窓際でレフ板が広げられる景色にも、この老店主はまったく意に介さないまま、常連客と話しこんでいたのだ(たぶん、競馬のことだ。あの店にはいつも競馬好きが集まっていた)。

 お店は閉まり、取り壊されるとばかり思っていた。

 ところが、あのお店のあとにも、また喫茶店ができるるらしい。買ったのか、借りたのか、わからないけれど、とにかく、息子さんが「この店の内装をそのままにする」ということを条件に、不動産屋さんに出したのだそうだ。
 しかも、それに手を上げたのは知り合いだった。月曜日の昼、工事の途中のお店から「ゆーきゃん!」と呼び止める声がしたので、なにごとかと思って振り向くと、「サンシロウさん」とぼくらが呼んでいる彼だった。9月1日オープンらしい。ふと軒を見上げると、扉の上に、一度はがされた「COFFEE]の文字が並ぶ。セブンのときと同じフォントだ。

 伝染沿いに掲げられる自動灯の看板は、まだ、というか、確信を持ってなお「セブン」だった(お店の名前には、別の名前が予定されている)。
 
 ぼくはこの店に、やっぱり足しげく通うと思う。もう干し柿が出てこなくて、カウンターから競馬の予想を持ちかけられることもなくて、コーヒー以外のメニューが増えて、一杯350円のシンプルなコーヒーを飲めなくなり、店名が変わっても、半ば家具の配置もそのままなセブンをしのび、なかばこの新しい店を楽しみむために、あるいはただコーヒーが飲みたいがために、お店に入って、東の窓際、Salyuのサインがおかれていた壁の傍らのテーブルに、腰掛けることはやめないと思う。すくなくとも、押小路通の上空3メートルほどに掲げられた光るパネルの名前が「セブン(ダートコーヒー)」である限りは。
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2011年08月02日

犬も歩けば

 ボロフェスタ関係の用事で、セカンドロイヤルの事務所へ行ったのですが、小山内くんやターンテーブル・フィルムズの井上くんと話しているうちに、なんだかまたちょっと面白い企てに混ぜてもらえそうです。これは来週くらいには詳しく書けるかも。(最近ここで書くことは、決まったけれどまだ話せない、みたいな中途半端な秘密ばかりですが…)
 とりあえずは明後日のlete、田代君にもベースを弾いてもらいます。お時間ある方はぜひいらしてください。東京では西院フェスに向けてエマーソン北村さんとスタジオに入り、PVの撮影をする予定です。その間、ボロフェスタの第二弾発表もあります。

 あ、それからお盆のあいだ京都に居るかた、いらっしゃる方は、ぜひこちらへ。面白い、そしてとても意義深いことが。
http://www.metro.ne.jp/schedule/2011/08/15/index.html#event01
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2011年06月15日

スナップ

 午前十時を少し回ったばかりの新宿駅東口に、幾組かの親子連れが歩いていた。ベビーカーを押したり、娘のて引いて信号が変わるのを待ったり、しゃがみこんで息子と話したり、どの親子も若かった。急ぎがちの靴音が街を埋め尽くすあさのラッシュアワーも終わり、もういちどビルが会社員や従業員たちを一斉に吐き出す正午までにはまだ間があり、通りには弱い風が吹いていた。たぶん心地よい部類に入る、でも六月らしい湿気も含んだその風を受けて、横断歩道のいちばん手前には、軽やかな髪をふわふわと揺らす男の子がひとり。隣に並んだ母親の回りをくるくると回り、信号機が青になるまでの時間を数え、白い部分を飛び越しながら向こうへ行ってしまった。そのあとを、風は追うようにして進路を変え、見とれていたせいで、ぼくは青信号を渡りそびれてしまう。その瞬間に、ほんとうに大事なものは、目に見えないんだよと言ったあのひとのことばがあらゆる色合いを帯びて頭上に落ちてきた。いや、でも今日はきっとすこし違う。正しくは「うつくしいものも、恐ろしいものも、大事なものも、憎むべきものも、ほんとうのことは、いつだって目に見えない。けれど、それらはかならず目に見えるものと隣合い、あるいは目に見えるものの中に隠され、ときには目に見えるものから放たれることもある」そう言わなくてはならないだろう。こどもたちだけでなく、ぼくらには覚えるべきことが日々増えてゆく。もの凄い速さで。人類よ、日本人よ、わたしよ、どうか学べ。
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2010年12月23日

都市の足許

 東京は、駅前の商店街が、よい。とりわけ、石畳のある通りが好きだ。

 自動車が一台やっとすれ違えるくらいの幅、アスファルトではなく石畳で舗装された道路、水銀灯の一本一本に商店街の旗が掲げられて、電柱のあいだを張り巡らされた電線が生きている街を証しているように見える。その下にはさほど個性のあるわけでもない、けれどだからこそ胸を張って八百屋らしい八百屋、同じように荒物屋らしい荒物屋、そば屋らしいそば屋...そのどれもが、これまた駅然とした駅を起点として、東西にあるいは南北に続く。歯医者帰りの老人、スタジオに向かうバンドマン、犬の散歩をするおばさん、石畳が気分を軽くくしているのだろうか、右側通行も何もなくめいめいが道の真ん中を、左側を、思い思いのスピードで歩いてはすれ違ってゆく。

 とくにこの時期は、ひとがただ歩くだけで巻き上がる、圧倒的な「押し迫りの空気」が何とも言えす面白い。遠回りでも、さしたる用事がなくても、わざとこういった石畳の商店街を道筋に選んでみたりしたくなる。魚屋の軒には伊達巻きや昆布巻きといったおせちの具の名を連ねた張り紙、なぜ?と思うような街の靴屋でも突然の大売り出し、やたら大きな紙袋を抱えた人が増え、歳末商戦という単語が別に大きなデパートのためだけにあるのではないのだと知った。
 だが、いくら人の多い東京といえ、どこもかしこも賑わいというわけではない。日常があちこちで軽快にざわめく通りを抜けて、石畳の終わりに差しかかるとき、そこから始まるアスファルトの上になんとも言えない寂しさが落ちているのを感じないか。偶然その傍らに空きテナントの張り紙を見つけたりしてしまうと、さらにその寂しさは路面から立ち上がって見えてくる。

 不思議なことに、石畳のあるあいだに見かけた空き店舗にはそれほどの寂しさを覚えない。また、たとえばさほど人通りのない時間―たとえば早朝にも、石畳には押し迫った気分が抜けずに残っているように思える。舗装ひとつで、どうしてこんなに街の景色が、空気が変わるのだろう。京都では、祇園や西陣や先斗町といった地名自体に大きな意味のあるところで舗装を変えているケースが多いが、むしろ、街中に散らばる駅たちからめいめいに伸びるメインストリートで石畳を敷き詰めているこの東京という都市においてこそ、舗装の持つ力がはっきりと分かったような気がする。今日はどの通りを行くのだろうか。
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2010年12月03日

霜月に葬る

街路樹の紅葉も、黄色い葉より枝が目立つようになってきた。もう十二月なのだ。

二年ぶりでその中に身を置いた京都の秋は、覚えているよりもさらに感情的だったように思う。丸太町の鴨川河川敷、金色に枯れた芝生から石積みのカーブを降りて、あんなにも水面に近づいたのはいったい何年ぶりだっただろうか。

東のほうに行くときはいつも京都御苑を横切ることにした。出町に用事があるのには、清和院御門のすこし前で左に折れ、木に囲まれた小径を抜けて、寺町今出川に出る。京都迎賓館のすぐ南東にある開けた一角には、だれかが意図して敷き詰めたのかと見間違うくらいの、一面の枯れ葉。そこから分け入ってゆくと、およそ街の真ん中らしくない木立がつづく。ここに来たばかりの頃、ちいさな居酒屋で働いていたことがあるのだけど、ある常連のお客さんが酔うといつも、京都の劣悪な住宅事情(ぼくは実際そういう家に住んだことがないのだけど、とにもかくにも彼はそう言っていた)をこの御苑のせいにしていたことを覚えている。街の真ん中にある庭があまりに広く街を占拠するので、庶民はこんなちっちゃな場所に木造三階建てのちっちゃな家を建てて満足せなあかん、というわけだ。でも、家に快適さを求めない貧乏書生気質にとっては、こんな街の真ん中にふと日常から乖離したスペースが広がっているほうが、ちょっとばかり部屋が広くなるよりもはるかにいい。何百年前には貴人を載せた牛車が行き来した砂利の大通りを、間の抜けた顔の子犬たちがちょこちょこと駈けてゆく眺め。なんとかの宮が住んでいた邸宅の傍らで、歩こう会のおっちゃんとおばちゃんたちがブルーシートを広げてお弁当を食べたりする眺め。まったく機能的ではないこういう場所が、権威と歴史を笠に着て、そのくせ妙に庶民的な姿で、平気な顔をして居座っているのはなんだか嬉しい。

でも、もうすぐに紅葉も散ってしまえば、これら憩いの景色を見られる機会もおそらく減ってしまうだろう。今年の冬はとくに寒くなるらしい。たとえば犬の散歩とランニングのためのコースと化した、人通りの疎らな御苑もまたいいけれど、まだ秋の名残があるうちは秋を精一杯に惜しみたいと思う。

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2010年11月25日

人生の午後

インフルエンザの予防接種に行く。外科で、整体院のようなこともやっていて、看護師さんがおばあちゃんに向かって「福本さん、きょうは電気(おそらく電気マッサージのことだろう)はあてますか?」と訊いているような医院。年配のお医者さんは陽気で、「いままで副作用が出たひとは三人くらいしかないです」だの「肩を出してください。腕の先のほうだと麻痺が残っちゃいますから」だのと言っては笑う。使い終わった注射器を、すこし離れたシンクに向かってぽーんと放り投げる。診察室とは別に処置室-というより唯のマッサージルームなのかもしれない-があり、くつろいだおじいちゃんたちの世間話がやたらと賑やかな医院。まるでバスの待合室のように雑多な人々が詰めるロビー、どこにも病んだ空気が流れていないその部屋の中で、会計待ち(なぜか15分程も待たされただろうか)の間に思わずうつらうつらしながら、ふと、不健康であることよりも、笑えなくなることや、優しさから遠のくことのほうが、人間にとって危ういのだと知った気がした。
posted by youcan at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする