「2017年の目標は毎日ブログを書くこと」と書いてから、今日で11か月と6日が経過しています。そして1年の残りはあと3日。結局投稿したのは(このポストを入れて)2回だけ。約束破りも甚だしいですね。
あっという間に過ぎてしまった時間が登り坂なのか下り坂なのか、正直なところ分かりません。もうけっして若いとは言えないフェイズに自分が突入したのは確かで、けれどその割にはちゃんとした責任感が伴っているわけでもない、相変わらずなるようになるさ的な甘めの人生観と人間観のまま、その日その日をなんとか生きているという自覚はあります。一方ふと世界や社会に目をやれば、ものすごいスピードで何かが流れ去っていく残像が見える。呆然とします。光陰矢の如しというけれど、いったい飛んでいるのは時間なのか、わたしたちなのか、それとも世界なのでしょうか。流れを見ているのか、流されているのか、もう分からなくなってしまいそうです。
でも、もう一度気を取り直し、少し視線を落として周りを見渡せば、今年がぼくにとっていい年だったのはやっぱり間違いないようです。自身の考え方を変えるような出会いも、足場がどこにあるのかを確かめることができた出来事も、自分の周りでゆっくりと状況が変容していくあの静かな高揚感も、たくさんありました。ゆっくりしたり、ぼーっとしたり、だらだらしたりする空っぽの時間がもてなかったことは残念ですが、まあそれだけ目まぐるしくも充実した日々を送らせてもらったことには、とにもかくにも感謝の念でいっぱいです。みなさんありがとうございました。
それはそうと、一年の最後に書いてみたいのは「憎しみ」というものについてです。
憎しみとはいったい何なのか。ここのところずっとぼくは考え続けています。ある対象に向けたネガティヴな感情。手元にある国語辞典では「疎ましく、懲らしめられてほしいと思う」、漢和辞典では「嫌悪する、恨む」とありますが、ぼくにはそれよりもさらに強い色合いがあるように思えます。対象の存在を否定し、ともすれば消してしまいたいという衝動が、憎しみには込められていないでしょうか。
何かを「憎むこと」について、学校では習いませんよね。「憎しみは、好ましくない感情だ」ということは教わったかもしれません。あいつ嫌いだよ、とか、どうもここは居心地がよくない、なんでこうなるの(怒)とかいった感覚は日常的に味わうことが多いと思いますが、本気で憎むというところまではなかなかたどり着かない。そもそも何かを憎んだことがあるかなと振り返ってみても、すぐには思い浮かびません(ぼくが能天気なだけかもしれませんが)。幸い(?)小説や映画や漫画のおかげで、憎むということがどういうことなのか、なんとなく場面を想定することはできます。けれど、具体的な事象を数え上げてみても、憎しみそのものを照らすことができるとは限らないようにも思えるのです。相模原の事件は憎しみによるものだったのでしょうか。だとすれば彼が憎んでいたのは障碍者たちでしょうか、それとも自分自身の生きづらさでしょうか。イギリスやフランスに吹いている移民排斥の風は憎しみでしょうか。彼らは移民を憎んでいるのか、生活の悪化を恐れているのか、どちらがより適切なのでしょうか。生理的もしくは空想的な嫌悪感、自己保身の欲動、劣等感の裏返し、虚無的な暴力衝動といった感情の集合体は、憎しみと同じでしょうか。私たちが生きているその日常で、この感情がむき出しで転がっている場面に遭遇することは果たしてどのくらいあるのでしょうか。
最近、一人の若者と出会いました。この若者はとあるスポーツをやっています。その競技において将来は間違いなく日本を代表するであろうと言われている才能溢れるアスリートです。日本での高校生活をいったん括弧に入れて、ヨーロッパに渡ろうとする彼と、渡航の1週間ほど前にゆっくり対話する機会があり、二人で「ノーマンズ・ランド」という映画を観ました。旧ユーゴスラヴィア紛争中のボスニア=ヘルツェゴビナを描いたこの作品を観ながら、時折あの場面はこういう意味があってだな…という解説をぼくが入れつつ、それについて彼が感想や意見を話していくという形で対話は進みました。
セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの人々の関係がどのようにこじれていったのかを話していると、若者は腑に落ちたような顔で呟きました
―それで、試合のときはあんな空気になるのか。
彼はこれまでにも幾度か欧州での合宿や大会に参加しています。それらの場面で、実際に二つの国のチームの試合を見るたびに、何かがおかしいと感じていたのだそうです。ぼくは内心愕然としました。紛争が終わってもう25年経とうとするいまも、若きアスリートたちの認識や感情の襞に歴史のひずみが染みついているのだと。
もちろんこの会話だけを材料に選手たちの感情の質を断定することはできません。セルビアとボスニア=ヘルツェゴビナのスポーツメンがそれぞれ生まれてからどのような遍歴をたどってきたのか。その「空気」を体現し煽動していたのは一部の(たとえばナショナリストの家に生まれた子弟がチーム内にいた、など)だけではないのか。その場限りの苛立ちや気持ちの高ぶりといった個人的な感情を民族的な侮蔑語に振り替えただけなのかもしれない。ひとりの若い日本人による一瞬の印象だけをたよりに、民族の間に刻まれた溝の深さを測り知ることなんて到底できないでしょう。
それでも、二つの集団が祖国や民族を背負って向かい合うとき、純粋に友好的なスポーツ競技のなかに互いを留めておくことを許さない歴史的な事実がそこに存在していること―そして、それぞれの国の若者たちはその事実を前提に話を始めなくてはならないこと― 彼は直感で、この確かさを感じ取っていたのではないかと思います。
何かを嫌悪する気持ち、誰かを糾弾したくなる気持ち、見下すことで留飲を下げようとする欲求、それらの感情は往々にして、認知のゆがみや無知(正しく知ろうとしないことも含む)を根っこに持ちます。知らないことへ目をつぶりたいという逃避衝動や自分の望んだように世界を解釈したいという欲求は、けれど、その人の耳や目をむき出しの現実の中にさらけ出すことができれば、夜の終わりのように(壁が崩れるように)消えていくものです。それは子どもが何かを学び、新しいことを知る過程と似ているでしょう。「啓蒙」ということばを考え出した人は(ルソーだっけ?)つくづくお見事だなあと感心させられます。
憎しみは、そのような幼稚な「蒙さ」とは異なるものです。確かに、憎しみが正常な眼差しを奪い、認識を歪め、判断を誤らせることはあるでしょう。しかし、その出発点において憎しみは「傷」から始まっています。コンプレックスの変形としての嫌悪感などよりさらに直接的な、人間の尊厳が傷つけられたときに滴る血こそが、憎しみを育む。この点において憎しみはすでにむき出しの、圧倒的な現実から始まっている、いや、始めさせられている―
インターナショナルスクールの授業で行われたディベートで「第二次世界大戦における日本の罪」をめぐって主にアジア系のクラスメイトたちから集中砲火を浴びたことを機に、嫌韓・嫌中という感情を刷り込まれてしまったという帰国子女に会ったことがあります。ネットやヘイトデモで飛び交うような汚い言葉を彼はほとんど使いませんでしたが、かえって観念的で空想的なレイシズムとは次元を異にするような、自尊心による復讐とでも言うべき激しいものが、感情の底に沈んでいるように見えました。そこに、貧乏学生時代、家賃の支払いにも困る暮らしの中で、ユダヤ人の高利貸し達を見ながら、あの唾棄すべき思想を抱きはじめたというヒトラーのエピソードと重なる部分はあるでしょうか。中東やアフリカで、反政府組織によって監禁され調教されて殺人マシーンに仕立て上げられるあの少年兵たちの影とつながるものはあるでしょうか。優生思想(とさえも言えない拗ねた反抗心)の亡霊にとりつかれて相模原の施設を襲ったあの青年との類似点はあるでしょうか。
ひとは現実のなかで出会った人やものを対象に感情を育みます。現実が自分に襲い掛かってきたとき、その痛みのなかで圧殺された魂の一部が変質し、憎しみとなる。出来事の重大性を<客観的に>測定しようとすることにはほとんど意味がありません。当事者が現実をどのように感じたのか、彼にとって現実はどのようなものだったのか―ほんとうの「重み」とは、彼の前に立ちはだかる現実のその<現れ>を推察することでしか知りえないものなのですから。憎しみに基づく事件が起こったとき、わたしたちはしばしば衝撃のあまり過剰なワイドショー化を求めてしまったり、脊髄反射的に抹殺することを求めたりします。けれどほんとうに注意深く見なくてはならないのは、彼がいったい何を憎んでいたのか?その憎しみはどこから来たのか?という「人間の闇」そのもの、ではないでしょうか。
(余談ですが、これもまたある帰国子女の友人―南アフリカからの帰国子女でした―から聞いた話です。あの当時、現地の日本人の大部分はアパルトヘイトが道理に合わない制度であると認識していた、現実にある差別についてはよく観察していた、けれど彼らはけっして黒人たちの心の中までをのぞき込もうとはしなかった、だから「名誉白人」であることに耐えられたのだろう、と)
幸か不幸か、日本の社会はこれまでずっと現実そのものがオブラートに包まれてきたように見えます―あるいは私たちの眼鏡に「世の中なんてそんなもんだよ」という諦めが染みついていたというべきかもしれません。差別は隠されており、不平等は人生に織り込み済みのものとして扱われ、現実は目の前からではなく背後や足元から人間の歩みを絡めとるもの―そんな社会で生きる私たちにとって、憎しみという感情はあまりに強すぎ、遠すぎるのでしょうか。敵意が、嫌悪が、嘲笑が、嫉妬がこれほどまでに渦巻いている日々においても「おれはあいつが憎い」という叫びを聞く機会は多くはありませんでした(だからこそ凶悪犯罪やヘイトクライムが起きたときには、いつも大きな衝撃を受けてきたのでしょう)。
でも、これからもずっとそんな社会であり続けるのかという問いに対しては、やはり不安を覚えざるを得ません。今年起きた様々な事件を機に、過労死やセクシャル・ハラスメントに対して上がってきた様々な告発は、上っ面の平等のもとで見えないことにされていたパンドラの箱が開かれていく音です。景気は上向きになってきていると言われていますが、格差の拡大についてはどうなるのでしょうか。ユートピアとディストピアが境界線をはさんで併存する社会は果たして豊かな社会なのでしょうか。外国人実習生という名目での低賃金労働や、生活保護の削減などは<弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者たちを叩く>などと口ずさんでしのげるほどの枠を越えているのではないか、個別の政策にどのような理屈があろうとも、その政策の影で搾取と弱者切り捨てが進むのではないか、そして社会が切り刻まれ、階層が作られ、不条理が姿を現しつつも動かしがたいものとして鎮座するその下では、「憎しみ」がスタンダードな感情として跋扈しないわけにはいかないのではないか、なんだかそんな危機感が、影のようにひたひたと後を付いてきます。
愛の反対は無関心だと言われます。マザーテレサは憎しみついては何か語ったでしょうか。憎しみの対義語は慈しみだとして、果たして慈しみをもって照らせば、憎しみを打ち消すことができるのしょうか。
ぼくは宗教家ではありませんし、社会慈善家でもフラワーチルドレンでもないので、憎しみに愛や慈しみをもって対するという言い方には、ある種のためらいを感じるのも事実です。対話や傾聴はそれ自体ではひとつのテクニックに過ぎず、なによりもそれは個々の関係のなかでこそ力を発揮するものです(カウンター・アクションの意義も認めますが、それは対処療法であって、ヘイターたちをフィールドから退場させる効果はあっても、根本的な解決とは少し違うのではないかとも思っています)。
シンプルに、憎しみの誕生を防ぐ方法を考えなくてはならない、あるいはゴジラを凍結するように巨大な憎しみが世界を破壊する前に冷温停止させなくてはならないということが、この間、ぼくの頭の中にある主要な関心事の一つです。なんだよ大げさだよ、お前みたいな凡庸な小市民に何ができるんだよという声はいつもどこからか聞こえてきますが、そのたびに、大げさなものをかみ砕くところから始めたいんだ、何ができるか分からないから、まず考えるところから始めなくちゃならないんだ、と言い返すことにしています。
ひとつには、できるかぎり多くの他者と<開かれてある>関係を作ること。できるだけ常に<開かれてある>場を守ること。またひとつには不条理や不公正について耳を澄ましていること、踏みつぶされそうな誰かの声を聴くこと。安易な自己責任論に流れず、公正であることや公正であろうとすることの意義や価値について、時間と手間をかけて伝えていくこと。そして<常に開かれてある><絶えず公正であろうとする>という(いわば)綺麗事を、できるだけ綺麗なまま現実に埋め込んでいけるような手法を考え続けていくこと。先ほど書いたヨーロッパへ渡航する若者は、ヘイトスピーチやレイシズムについて「恥ずかしいと思わないのか」という疑問の言葉を発していました。個人の印象や好き嫌いや恨みつらみは認めるとしても、その感情を差別という形で正当化すること自体がおそろしく醜いことのように映る―ぼくもまた、彼の感じ方に賛成です。このシンプルで自明な、理性と感性の結びつき(倫理と美学の結びつきともいえるかもしれません)は、何よりも大切にしなくてはならないと思います。
最近、自分のやっていることは何なのか、やろうとしていることは何なのか、うまく言い表す方法がないかと思案した挙句、「未来建設業」ということばを思いつきました。自分ひとりでは絶対に造ることのできない、設計図を持ち寄っての試行錯誤が頼りで、サグラダ・ファミリアよりも果てしのない事業―
サン=テグジュペリは『戦う操縦士』の中で、こう書いています。
私の属する文明の人間は個々の人間から出発しては定義できない。個々の人間は人間によってはじめて定義される。あらゆる存在のうちにおけると同様、人間のうちにはそれを構成する素材によっては説明しがたいものがある。ひとつの寺院は石材の総量とはまさに別のものだ。石材は幾何学であり、建築学であるに過ぎない。寺院を定義するのは石材ではない。寺院はその独自の意味によって石材を豊かにするのだ。それらの石材は、寺院の石材たることによって尊くなったのだ。このうえなく多様な石材が寺院の単一性に奉仕している。寺院はその賛美歌のなかに、どんなしかめた口でも吸収してしまう。 これにぼくは(おこがましいことは承知で)次のことを付け加えて、この饒舌なポストを終わりにしたいと思います。すなわち―
それでもぼくは、個々の人間を通じて人間が実現することを信じる。個々の人間が人間という定義に向かって生きていく歩み、それぞれの石材が寺院の意味を支えていることに誇りをもつこと、それこそがよりよい文明への道を作るのだ、と。
今年5月、マンチェスターで起きたテロに対して、あちこちで歌われた”Don’t Look Back In Anger”。アリアナ・グランデのステージでクリス・マーティンが歌った映像も、もちろんマンチェスターの人たちが街で合唱した映像も心を打つものでしたが、これはフランスのギャルド・レピュブリケーヌがフットボールの試合の前に演奏した様子。イングランドの応援団たちの大合唱が聴けます。歌うことはけして無力ではない。音楽は無力ではない。テレビやネットから流れるうただけではなく、有名人がステージ上で歌い上げるうただけではなく、きみが口ずさむうたにこそ、世界を変えるだけの力がある。別の動画に寄せられていた"All france are with you,England"というコメントにもぐっときました。