2010年11月21日

もみじ

友人の結婚式の二次会の呼ばれたのだが、正装というものが分からず、着慣れないスーツでは心もとなかったので、ひさしぶりにパーマでもあててみれば何とか見栄えするかと思い、当時行きつけだった美容院へ向かった。
担当してくれていた美容師さんはもう居なかった。尋ねてみると、二年前に広島へ帰ったのだという。実家を使って自分の店を始められたそうだ。蛙の鳴き声がやかましいほどの田舎らしいですよ、と後輩の美容師さんは笑っていた。

三次会の席で向かいに座った三人組の女性は新婦の高校の同級生だったが、その高校と言うのが広島の高校で、彼女たちはとてもきれいな広島弁で喋っていた(方言がきれい、というのは不思議な気もするが)。三人のうちいまも広島に住んでいるのは一人だけで、あとの二人は神戸に住んでいるそうだ。どうやらスーパーノアの岩橋の実家の近くらしい。そんな岩橋は京都に住んでいる。

ともあれ、ひとは移り住む生き物で、移り住んだ場所で喜んだり悲しんだりする生き物で、誰かと出会っては愛し合ったり憎み合ったりする生き物で、根を下ろしたかと思えばまたどこかへ散らばってゆく生き物で、髪を切ってもらう以外には会うことのなかった人を淋しく思ったりする生き物、遅刻は絶対にいけないと言いながらぎりぎりに到着した受付の前でショールを忘れたことに気づいてしまう生き物、余興のビンゴ大会がくだらないと言いながらも景品は欲しかったりする生き物、三次会のテーブルに着くや否や眠りこんでしまう生き物、あててもらったパーマがくせ毛風というよりくせ毛そのものにしか見えなかったりする生き物でもある。

「月並み」という形容詞が、なんだかうつくしいと思った。
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2010年11月19日

枯葉の季節

歯医者に行ってきた。一本の半分がなくなった。「もうだめなので神経を抜きます」と言われ、つまりその歯は死ぬということだと思うと涙が出た。麻酔が切れてきているけれど、この痛みは悼みなのだと思うことにする。

いままでありがとう、わたしの歯。あなたの根元から先はもうしばらく生きて、擦り減ったり黄ばんだりぐらついたりしながら土を噛んで歩きます。

今日はいつになく空がまぶしい。
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2010年08月21日

庭のこと

 生家には、庭がある。

 限られた面積を区切って、なんとなく作られた築山の上に、ほとんどでたらめにいろいろな木が植えられている。風情も何もないのだが、久しぶりに家に帰って感心したことには、この庭はぼくが物心ついたその時分と、ほとんど変わりがないように見えるのだ。
立ち枯れた木もない。毒虫がついて大騒ぎしたことのある椿や松もいまだ健在、けして立派でもないが椿は椿、松は松らしい枝ぶりを見せている。毎年夏が来るたびに病葉を落としてばかりいた貧弱な泰山木はすこし健やかになっただろうか。
 造られて40年ほどの庭である。幼いころにここまで連れてこられた木々は、その狭い地面を各々分け合いながら暮らしてきた。いま雑然としながらも落ち着いた風貌で立ち並ぶ彼らを見ていて、なんとなくであるが、お互いを運命共同体だと思っているのではないか、という気がしてくる。

 記憶している限り、我が家の庭で伐られた木は、無花果と朴の木だけだ。無花果は小学校に上がる頃、伐られてしまった。なぜ伐られたかは覚えていない。それは裏庭にあった。一度だけその実を食べたように思う。実は割れていた。鴉が食べに集まるから、という理由だっただろうか。だがいまでもスーパーで無花果を買ってきて食べると、我が家の裏庭のことを思い出す。灯油缶とスキー板と荒縄が仕舞ってある、埃っぽい納屋の隣にあった無花果。祖母と一緒に食べた、ジャムみたいに甘い無花果。
 朴の木は、縁側のガラス戸の真正面だ。居間から見える庭の景色といえば、この朴の木だった。夏にはよくある季節のスナップ写真よりも見事な構図で蝉が止まり、秋には朴葉焼きの店が出来るほどに端正な葉を落とした。ぼくは一人で遊ぶのが好きな子供だったけれど、とくに好きなのは庭をあちこち歩いて棒きれで叩いたり石を積んだり落ち葉を拾ったりすること、なかでもいちばんだったのは(どういうわけか)この朴の木のまわりをぐるぐる回ることだった。象の皮膚にも似た幾何学的なざらつき、そのうえ乾いて清潔な木肌。大きくて見事な意匠の葉を夏には青々と繁らせ、秋には惜しげもなく落とす。ぼくはきっとこの木のさっぱりとしたおおらかさを誇りに思っていたのだ。それが自分の家にあるということが、とてもうれしかったのだ。

 高校2年生の春だった。その頃には朴の木は大きくなりすぎていた。周囲の木を圧倒し、不要な日陰を作ってしまうというので、父は植木屋さんを呼び、あまりにあっけなく朴の木は伐られた。退屈な高校生活だったので他に大した記憶がないせいか、その日の窓の外の景色だけはいまでもありありと思い出せる。切り株だけになった朴の木。昨日までは見えなかった、しらじらとしたコンクリートの壁。

 その翌年、家をはなれて京都に引っ越した。何年か経った。どのくらいだったろう。5年か、10年か。朴の木は新しい枝を伸ばした。切り株から二本、すこしその元で捩れ、あとはピースサインをするようにV字に、すらっとした枝を伸ばす。いや、これは新しい幹と呼ぶべきかもしれない。その枝からは次の枝が分かれ、またあの端正な大きい葉が風に揺れていたのだ。

 そして今年。お盆に帰省して、まだ子供の二の腕ほどの幹に、蝉が帰ってきているのを見つけた。網戸を開けて、玄関から下駄を取ってきて縁側へ落とし、思わず庭へ出た。ツクツクボウシだった。蝉の止まっていないほうの幹に手を触れる(蝉は、逃げなかった)。木肌の感触は、覚えているまま、ほとんど変わっていなかった。ぼくは夏が好きだったことを思い出した。のどが渇いたのでまた縁側から家に上がり、すっかり小さくなった祖母と、扇風機を目いっぱい回しながら麦茶を飲んだ。

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2009年11月13日

無題

いろんな本を読み散らかしている。高円寺のあちこちにある古本屋さん-何十年も続いているのかもしれない、薄暗く、狭く、壁沿いにずっと本が積んであるような古い古本屋さんから、「BOOK MART」とか「DRAMA」とかいう青い看板が掲げられた古本量販店まで、とにかく100円コーナーというサインを見つけては面白そうなものがないか、がさごそと探っている。「ニーチェとの対話」「なぜ心は苦しむのか」「日本語練習帳」「ピンク」「ダロウェイ婦人」「一茶」「モードの冒険」...近くを見渡すだけでこんな感じ。ある店では2000円で売られているハードカバーが、別の店ではこのワンコイン籠のなかに雑然と突っ込まれていることもある。
気になったものを手当たり次第に買って、バスに乗るとき、ご飯を食べるとき、ときには歩きながら読んだりもする。
読書の秋というわけではなくて、むしろほんの僅かな時間の隙間さえも電話連絡や資料のまとめ等に廻さなくてはいけなかったあの狂った9月10月の反動なのだと思う。とにかく読みたい。飛行機の前座席の網棚に差さっていたJALの会報も、銀行のロビーに置いてある絵本も、サンレインに日々流れ込んでくるフライヤーの裏面も、このところ病気かと思うほどに興味をそそる。

今朝、台所の壁に寄りかかって温めなおしたをすすりながら読んだ本に書かれていたのは、こんなこと。


心理学者はその心理学の野外調査や分析の日々の積み重ねをつうじて、小説家はそのイメージや文体をこれも日々作り上げ・作り変えてゆく労作をつうじて、ある日、それまでただ楽しみを広げる仕方で自由に読んできた詩や小説が、統合される視点にゆきあたる。喜びのための読書に、人生が介入する。そしてこれまでに読んできたチリヂリバラバラの詩や小説が、ひとつのはっきりした全体の一部として、この世界とそこに自分が生きてあることの意味をあかしだす・・・(大江健三郎『ヒロシマの生命の木』)



僕にはまだこの「意味」が明らかになるときは遠いだろう。ただ飢えに従って活字を食い漁っているだけ。でも、ことばを以て世界へ語りかけるべく何十年も苦闘してきたひとがこういうふうに書いているのを見ると、それだけで続けることへの「希望」を示されている気になるのだった(もちろんこの本にはそんな安易な「継続は力なり」は一切書かれていないが)。


話は変わるけれど、マイケル・ジャクソン「THIS IS IT」は素敵な映画だった。サンレインのスタッフ、佐野さんに激推薦されて思わず観にいったのだけど、本当に行ってよかった。音楽って素晴らしいね。
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2009年01月08日

ある街で

何も始まらない悲しみだ、と彼女は言った。

たしかに歴史や地形や地理や社会環境が悲しみを蓄積させることはあるかもしれない。現に、鈍行で東京から丸半日かけても辿り着かない(僕らは失敗した)その街を「最果て」と呼んでも差し支えなかったのかもしれない。

でも、肝心なのは生命がどんな状況下でも何かを始めようとして震えだすことだ。

展望室で初老の男性が何にもないところだなと悪気さえなく切り捨てたその隣、僕はあの山並みと蛇行する河と新幹線の軌跡をめちゃくちゃに美しいと思ったし、

正月のデパートを逆さにひっくり返すほどのミニチュアめいた初売り騒ぎを抜け出して登った城跡ではあの詩人が十五歳のこころを吸わせたという空の名残がいまでも確かに残っていたし、

なにより街を出た若者や街を出ようとする若者や街に残った若がぎっしりと詰め掛けた瀟洒な居酒屋などは、その空間の一切がささやかで鮮やかなはじまりに満ちていたように見えた。


この街のどこかでは、きっと誰かがいいことも悪いこともたく企んでいるだろうさ。ロック・フェスをやりたがっている大学生だっているに違いない。きみたちの悲しみが細かな震えを束ねるなら、それは大きな波になるだろう(これを数学用語で逆フーリエ解析というらしい)。

僕は日本中どこにいっても変わらない味とおかわりサービスを提供してくれるちっとも悲しくないドーナツショップのちっとも悲しくないコーヒーを啜りながら、そんなふうに思った。

表通りは、美しい街並みだった。
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2008年12月14日

無題

十二月の空気の粒が
錐状の光を まっすぐに飛ばす
眠たげな瞼を射抜かれて
はじめて甘い夢がとっくに終わっていたと知る
大変だ 駆け出すその速度ではもう次の快速にも間に合わない
迷ってしまったみたい
迷っていたことに気づいてしまったみたい
ねえ きみは
あの初夏の芳しいシンフォニーをいつまでも纏っていられると
本気で思っていたんだろう
きりぎりすのように
うさぎのように
祈りのように 願いのように
ただ健やかに涼やかに生きてゆけると
信じていたんだろう
冬はいつだって巧妙な罠で 僕らを不意に襲うのに
陽だまりを奪い合い 炎を盗み合い
街中をぴかぴか光る浪漫で飾り立てては必死でかき集めたぬくもりの山
その先にあったのは腐敗と火災 誰かの肩に掛けられるほどの布きれ一枚ない
そんなふうになるまで きみは一体なにをしていたんだい
この季節が美しいのは
ひとを凍え殺す程に残酷さが輝くから
骨のような枯枝の向こうに月が燦然と嘯くから
老いた獣の泥だらけの歳月の上に
線路傍らの廃家電から染み出したオイルの表面に
満員の酒臭い終電車がぶちぶちと潰しながら進む年の瀬の断片に
青白く反復するメロディが 繰り返し繰り返し降り注ぐから
そのなかでたとえばひとつ繋ぐ手
36度すこしの温度があればそれで充分だって
もっと早く気付けばよかったのにね
ほら でも
恐れてはいけない もう一度
この中途半端な寒さの底から始めよう
東京にはあのいやなみぞれ雪はあまり降らないんだってさ

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2008年10月27日

阿佐ヶ谷1番街の猫

彼は走らず、見上げることもせず、ずっと俯きがちに路面を見つめて、しずかに歩いていた。何年も前、きっと首輪をなくしたその数ヵ月後から、餌をさがすために必要だった左右の動作だけ(もしかしたら後ろから迫る脅威を確認するために振り返るということはあったのかもしれないが)を重ねてきた−そんな物憂げさで、頸を動かす。私が追い越したときも彼はひどく緩慢に右に注意を振り分けながら上目遣いでちらと貧相なシルエットを確認し、すぐに看板の足元に興味を戻すのだった。

この猫のふてぶてしさの中には恐ろしいほどの人間擦れがあり、あるいはだからこそこんなふうに人を人とも思わない(もちろん自分と同じ猫だとも思っていないだろうが)態度をとれるのだろう。もしかしたら飼い猫だったのかもしれない。かつての暖衣飽食、かつての愛された日々を、こいつは懐かしんだりするのだろうか-そんなことを思いながらもう一度眺め回していて、ふと気付いた。
この猫には尻尾がない。付け根から10センチ、やっとのことで地面に向けて垂れ下がることができる長さの箇所でぷっつりと切れている。それは一切の恣意的な動きに支配されず、ただ歩みの中で足の離陸と着地の衝撃をわずかに受けて揺れているだけだった。

猫の尻尾が思考や感情を表現するというのは有名な話だ。そういえば昨日もそんな会話をした気がする−ねえねえ、などという甘えた呼びかけは絶対に手よりも尻尾でするべきだ−
そういうことなのだろうか。目つきの悪い昼間の猫たちの中でも最悪に不敵な顔つきをした、阿佐ヶ谷一番街の退屈なハードボイルド。きみは猫的な感情の多くを切り落とし、そのこころは万有引力を幾分拒むことを体得(まさにこの二文字はぴったりな表現だ)して、そして目覚めから最も遠い昼下がりに飲み屋街の看板の下を残飯を(さほど期待もせぬまま)探しあるいているのかい。もちろんそんな問いかけには一切構うそぶりもなく、猫は建物の隙間に消えた。そのすぐ隣、瀟洒なバーのガラス扉には"GAMES,SPORTS,MOVIE,and MUSIC"と書かれていたような気がする。



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2008年09月03日

そして特に記す

いちにちに何個もエントリーを立てるのは気が引けるけれど、これは書かなくちゃいけない。


9月7日は、TSUTAYA西院店でボロフェスタのプレイベント。デビューアルバムをリリースしたばかりのshiba in carのレコ発インストアでもある。


西院店では、4年働いた。
最新型の音楽も、JAZZの面白さも、あの店で教わった。

歌うのは2度目。前回は西院フェスだった。
今回は、今年「ボロフェスタ」と冠のついた最初のイベント。

西院店のスタッフでもあり、ボロフェスタのスタッフでもあるアンリが、きっかけを作ってくれた。
タワーレコードのインストアなどと違って、ツタヤにはPA機材なんてもともとない。フロアもインストアなんて想定せずにできているから、いちいち什器を大移動させなくちゃならない。営業という面だけで見るとメリットよりもデメリットのほうが多いかもしれないインストアライブ、しかも3組も出るボリュームの多いこのイベントは、もちろんお店側の協力、加えてTSUTAYA本社の力添え(西院店だけでなく烏丸五条店のレンタルフロアにも「ボロフェスタコーナー」があるらしい。驚いた)、そしてshiba in carのレーベルオーナーDai-chanのおかげで、出来るようになった。

shiba in car、僕のほかに、choriが出てくれる。また今年からスタッフに加わったヨーロッパ企画の若手、ソリ松が司会。PAは岡村ちゃんだ。その裏で、同じ日にSCRAPチームは京都音博の宝探しゲームをやっている。その滅茶苦茶な感じがまたボロフェスタっぽい。

日本一狂ったD.I.Y.フェスが、日本一狂った(これはもちろん褒め言葉だ)ツタヤから始まる。そういえば今日、素敵なニュースが飛び込んできた。今年も面白くなりそう。



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2008年08月18日

テレビ塔

あのテレビ塔から探し出したなら
感情七号を逆流する僕らの影は
まじりっけなしの不条理のように見えるだろうか
いつか一街道に翻弄される僕らの鼓動は
リージョンフリー ばね仕掛けの壊れたフュージョンとコンフュージョン あるいは浄瑠璃のように聴こえるだろうか
民主主義の宮殿も残酷な平和の号砲も ついには英雄に俳優に最新の祭壇に向けた数十万人の熱狂さえもが店頭 待合室 車内 路傍 どれほど街中に溢れても
きみの通り過ぎたあと 単純な故郷だけはもう手に入らない
街灯の果ての夜空に目を凝らし
そのどこか あるいは裏側に隠れたかげろうの廃屋 見渡す限りのとうもろこし畑 幻じみた強い陽射しの玄関先を夢に見ても
夏の嵐のあとであまりにあっけなく失われた景色たちは二度と立ち現れない
それはなんという孤独
それはなんという娯楽
そのおおきな空白のなかで 僕らはただ独楽のように回り
ぶつかり合っては惹きつけあって
別れ際には涙し
再び出会ってはくしゃくしゃに笑い
雨あがりの闇の内側で
夏の終わりを彩るひかりを 空に向かって投げて
最後の電車を乗り過ごしそうになり きりきりくるくると予定調和に舞い
居並ぶ見たことも無い顔 人ごみをごみではなくひとなのだとはっきりと知り
富にも地位にも名声にも自己実現にもその他一切の栄光にも換えがたいひとつの祈りを
あのテレビ塔から探し出して 呼ぶことができたなら
どんな風に感じるのだろうか
そのとき
どんな風を呼吸しているのだろうか
そのとき
きみの視線にはいったいどんな波が宿っているのだろうか

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2008年06月05日

六月の断片

地上では走査線のように日常が街を網羅し
あたりまえのことを見失った僕らをあっさりと絡め取った

次の階段に次のステップに次のレベルに登るひとたちを
ぼんやりと見上げては転げ落ちる朝に酔いどれた影だった

弱さは罪
弱さは罠
そういうものを愛したきみもまた愚か
昨日の異能も偉業も修行もなにひとつ残らないまま
梅雨の晴れ間のように笑いましょう
破れたビニール傘のように笑いましょう

そして地下鉄は往き
ここに残るのは等間隔にひっそりと咲いた
都市に求めあう日々の木霊だけ
いつか笑ってただいまと言える夜を待っている

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2008年04月30日

遠い橋

遠い橋まで歩いてゆこうか
確かめるように靴を脱ぎ
滅茶苦茶に燃えさかる朝焼けを捕まえようか
それとも眠れぬ街角で
傷口を掻きむしる春の空気の指先に合わせ響き出す
高らかな中古のシンフォニーに耳を澄まそうか

肩ごしに目を覚ます世界にも気付かない素振りで
欄干からそっと手を離し
飛び散ったまぼろしをひと掴みポケットに入れて
軽く握りしめる

あと何時間かすれば
今日の空は季節の重みに耐えかねて落っこちてしまうだろう
信じて裏切って
ありきたりの安っぽい言葉しか届かない場所へ
落っこちてしまうだろう
どうかその前に引き剥がして
向こう側のひかりで
新しい日々を照らし出せたらいい
そして僕たちはその中で
遠い橋のそのまた南に連なる春の雪山を指さして笑った
あの子供たちのように踊るんだ

ほら 簡単に靴を脱ぎ
また ゆっくりと歩いてゆくのさ
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2008年04月09日

4月8日

このちいさな街の目抜き通り
千度も顔を合わせた古い友人がここに来るなんて
あの頃は誰が想像しただろう

星というにはあまりにみっともなくささくれだった宝石のような音楽を奏でる人間の倒れた日
僕らは彼をまた一年追い越した

数千年前に地位を捨て妻子を捨て世を捨てて悟りを探しに出たという流浪の人間の生まれた日
僕らはどうやらそのときの彼と同じ年齢らしいのだ

尋ねてきた友人を改札まで送り届けて降りてゆく帰り北口階段の踊り場で ありきたりの感慨がふと胸を衝く

明日のことを知りたくて ひとはこんなにも精緻なダイヤの上に列車を走らせ続けるのだろうか
だとすれば
せめて今日だけは誰もその網に飛び込んで絡めとられていませんように

居酒屋で流れたのはあの街で生まれたメロディ
あそぼうよ 魚ごっこ と またもここにもういない人間がスピーカーの向こうで歌う

あの頃は誰が想像したろう
この日ここで僕が生きた何人とことばを交わし
秒速一秒の途方もないスピードで過去を越えてゆくのかを
僕には想像がつかない
いつか僕の去った世界でこのありきたりの感慨を抱く誰かの日々を
たぶんそれは誰にも想像され切らず ちいさな街の目抜き通りに幾つも転がったまま
春風に乗り花粉に混じって人々の鼻をくすぐり続けるのだ
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2008年02月13日

南改札

いくつかの層に分かれた世界の
そのどこかに位置する地下鉄のホームから
陽の光を求め
分かち合う相手を求め
単純明快な安らぎを求め
南改札のエレベータで列を待つひとよ

きみの旅路はいつまでも終わることがない

(はっきりさせておきたいのは それがあれらの安っぽい歌詞に出てくるロマンチックな小旅行なんかではなく もっと悲惨でもっと重厚でもっとも難解なあの現実に関する流浪であるということ)

いくつかの層に分かれた世界の
その向こうに隠れた別の可能性について
高らかに歌ってもよい
狂おしく打ちつけてもよい
手がしびれるまで舌がもつれるまで言葉に尽くしてもよい

それでもきみのいまは変わることがない
いまのきみは何にも換えがたい

それがどんなに哀しく
愚かしく
逃れることのできない栄光なのか
南改札の向こう さらに地上に続く階段の向こう
燦然と輝くのは雪に埋もれた丘
十字架も卒塔婆も鳥居もない
ただ葉を落とした あの詩人に「僕の骨」と呼ばれたかもしれない楡の木だけが叫ぶように立つ
まばゆい夜の丘

きみはその前で ゆっくりと息をつき
ポリエステルの傘をさし 今日の家路につくだろう
さて ここがどこだかあててごらん
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2008年01月12日

a drop of song

雨上がりの空
泣きはらした月が誰もいない部屋をゆっくりと染める
そっと声がして
振り返るようにお茶の湯気がたち夜に溶けてゆく
愛の罠 落とし穴
覗き込めばいまも大粒の涙が零れてゆくだけさ
ありのまま許しても求めれば同じこと
偶然に必然にすれ違う僕らはまた
明るい部屋に残る笑い声 笑い声 そればかり探してる
ままごと遊びの後で
散らかした想い出を拾い上げることもなく
眠って目覚めて朝を迎える


(この書きかけの詩は、青臭い若さが年を経てやがて美しく輝き出すことをあの日教えてくれた田中さんに捧げる。ご冥福をお祈りします)
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2008年01月01日

坂道を越え

何も失わずに坂道を越え
何も忘れずに坂道を越え
あの景色を見る
あの景色を見る

真冬の花のように目を見開いて
月明かりのように目を閉じたまま
あの景色を見る

世界は声で満ちる

あらゆる歓喜を待ち望んでも
また何一つ望まなくても
誰しもに等しく注がれる時間の閃光に焼き尽くされて
僕はいったい誰だったのだろう
僕はいったい誰だったのだろう
僕のメロディは
僕のことばは
僕の愛した一切は
いったい誰なのだろう


世界は声で満ち
祝福に翼をと
この街は君のものだと
毎日は過ぎてくでも誰かが誰かの味方だよと
その響きの中で僕は
肩の辺りから何かが羽ばたくのを感じる
翼を持たぬ僕から
何かが羽ばたくのを感じる
そのまま何も失わず
闇を越えて 丘を越えて 坂道を越えて
そのまま何も忘れずに
あの景色さえも越えて行けと
声にもならないそれは でも確かにそう言った
僕はもう一度目を閉じて
あの景色を見た
もう一度だけ目を開いて
あの景色を見た


まだ明けない夜をうたう力を
もう一度だけ信じたいと思った
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2007年12月31日

迷いの灯

迷いの灯に僕ら羽根の様に震えて
師走の街をふわふわと漂った
ただ新しい朝を夢見ながら

帰り道に見上げる古びたテレビ塔は
狂った夜を越えてゆっくりと話し出す
ただ新しい朝を夢見ながら

誰の事も置いてゆかないように
誰の事も忘れてしまわないように
躓く石をずべて照らすように
迷いの灯をかざし
凍えた手いまここで分かり合えた振りで笑ってよ
笑ってよ
ただ新しい朝を夢見ながら
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2007年12月20日

回顧

誰よりも小さな声を探してステージに上っていた
言いたいことはある だが何だったか思い出せない
それを歌うためにステージに上っていた
この無為な日々を誰が赦すだろう
僕を抜きにして誰が赦すだろう
鏡のように足下のモニターを見つめ
誰よりも小さな声は師走の黎明のように空疎
無限の感情と環状の夢幻と
とにかく
謳えないことばを こぼれ落ちる音像を 終わりの終わりの始まりを
冷たくあたたかくたたえる夜の果ての闇のように
さながら叫ぶためにステージに上っていた
この無為な歳月を誰が赦すだろう
この無為な鼓動を誰が聞くのだろう
幾星霜を積み上げて積み上げて流れ去ったあと滑稽に散らかる部屋の片隅
僕は逃げないそれぐらいしか後はできないけどと書いた23歳のノートの筆跡
ステージを下りれば小さな声は掻き消され
整然としないことばたちは悲しみと苛立を呼ぶだけ
結局は何度となく逃げた足跡は
ただそのままで
何度も何度も繰り返してきた呼吸の名残と
何度も何度も繰り返すであろう呼吸の可能性を
ただそのままで
いつか惨めさを喜びに
愚かさを優しさに変えることを願うようになった
知るようになった
そう
君を抜きにして誰が許すだろう
僕を抜きにして誰が歌うだろう
ただそのままで

同じほど無為な夜と朝とが流れ尽くした後で
まだ小さな声がステージの端に見つかるのなら
僕はそれを拾って 一切を許したい
ただ師走の黎明のように横溢することばに出来ぬ何かをいつか言い当てたいと
想っている
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2007年12月17日

収集日の詩

ひどく浅薄なやり口で私たちは夜を越え朝を笑うのだった
ひどく残酷な寂しさにまるで笑わずにいられないのだった
愛の罠落とし穴どんなに華麗に跳んでみせても既に音もなく幕を引くサテンの空の下
また始まるだけの始めから無かったような恥さらしの今日がこの街で誰かを待つだけ
さあ あと一時間半眠ればいいさ そうすればもう収集車は往き
行き詰まりも息詰まりも鬼気迫る演奏の惨死も残滓も慚愧に堪えない願いの影も
ただ無邪気に白い淡光を反射させ続けた冬の陽に比して栄光となり清浄となり静粛となって弾け飛び
そのあとで月曜日駆け出す通勤ラッシュのように
私たちは世界を摂取するだろう
ここにあるもので私たちの寂しくないものは無い
ここにあるもので私たちの歓ばしくないものは無いのだ
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2007年11月13日

LARRY HEARD

その音は甘く
粒子には粘りがあった
時間にコートされた太いビートに身体が搦め取られる気分
踊りながら眠るような
踊りながら沈むような
ずぶ濡れになってゆくような気分で
その中でいつしか
この人は"LISTENED"ではなくて
ただひたすらに"HEARD"なんだと気付いた
スピーカーの前から離れて少し休み
話しているときにも会話の中に忍び込むその菌糸たちが
部屋中のあらゆる空気を至福で埋め尽くしていた
踊らなくてもよいダンス・ミュージック
踊らなくても届くダンス・ミュージック
その音は甘くて
粒子には粘りがあって
清々しいほどの愛がありしかも一抹のドライさが絶えず残っていて
最後には椅子に腰掛けてぐったりして(きっと単純な踊り疲れじゃない)
このまま息が詰まってしまえばいいとさえ思った

明け方にクラブを出て最初に吸った空気は
晩秋をようやく迎えた街のはじまり
炭酸水のようにまだ暗く濃密で潔く
寒さと涼しさの境目で爆ぜる朝のなかで
ひと気ない木屋町通りを高瀬川に沿って歩きながら
僕はこのひとを忘れ得ないのだと知った

"HEARD"であること

まだ家には帰れないと言った僕のことを笑わないでほしい

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2007年11月02日

睡蓮の庭

睡蓮の庭
照り残す太陽は水底を抱きしめて
乱反射した晩秋の空に混乱と夢がほんの一瞬 限り無くうつくしい笑みを交わす
無造作に無邪気に放り投げた少年の詩が歳月を経て
いま 落ちてくる
脳天を強く強く撃つ
そのとき小鳥は赤い実をついばみ
甘い甘いいのちが一瞬に揺れ
そして僕はいったい君と何を分ち合えばいいのか分からないまま
ただ宇宙が同心円状に崩れて行く水面をぼんやりと見ている
明日またね、を飽きるほど繰り返した夏から
地中で眠ることだけが正しくなる季節へ
僕らは幸福を育て 幸福を殺して食べて 幸福に塗れた細胞の集合体だと誰かが言った
この身体を貫いて射す深いエコーのような残照をうけて
睡蓮の庭に浮かんだあの人と
睡蓮の庭を描いたあの人と
創作 輪廻 無限に繰り返す波紋のなかに
ひとつの景色が浮かび すぐに去った気がした

posted by youcan at 17:55| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする