2010年06月04日

無題

 小川通りと西洞院通りの間、夷川の角にある公園は、陽成院の跡地だという。『源氏物語』に出てくる二条院のモデルだ。当たり前だが、いまはその面影など望むべくもなく、ぼくもただ公園に立つ説明板で知った。

 陽成上皇はその放恣と残虐な性格ゆえに、たったの15歳で帝位を追われたそうだが、年端も行かぬうちに祭り上げられ、その日々は関白・藤原家などに都合よく利用されていただろうから、伝えられている”滅茶苦茶な行い”の根に何があったかは慮ることができる。
 ともあれ、その人生の早々に押し込められた場所で何を想いながら日々を過ごしたのだろう(なにしろ、その後さらに65年も生きたのだ。当時にしては異例の長寿だったに違いない)。それは放逐だったのか、あるいは解放だったのか、もう知る由はないが、とにかく1200年を経て、あなたの庭は公園になりました。


 公園は東西に長く、夷川通りに沿って桜の木が植えられている。今頃の、新緑を卒業し、夏に向けてだんだんと強さを色に込めつつある葉が風にそよぐさまは本当に頼もしい。時折木陰のベンチに寝転がって昼寝をするタクシーの運転手を見かけるが、その気持ちはよくわかる。

 さらにその北には建設中か改築中か、とにかく青色の防護シートに覆われたマンションがある。四階、もしくは五階建て、遠目にみるその青いキューブはまだ「暮らし」を纏えず、中京の静かな街並みにほんのすこし違和感を差し挟んでそこに組み立てられている。
二、三日前の、おそらくもう時計は午後七時に差しかろうという頃だった。仕事帰りの父親と小学校中学年くらいの息子が、桜の傍らでシーソー。「シーソーをしていた」と言うのはすこし違うかもしれない。左、白シャツの父はシーソーに対して直角に座り、右、息子は板にうつ伏せになって顔だけを横に向けていた。ぼくが歩いているのは柵のこちら側、夷川通りを帰り道だ。お父さん、急に立ち上がってはいけませんよ、と思いつつ、歩いてその後ろを通り過ぎようとしたのだが、なにやら耳に入ってきた二人の会話が、面白くて、つい立ち止まってしまった。

 父が指さす。息子は腕を伸ばして、上半身だけを起こす。あそこからやで。え、なら、あっちは空?ちゃう、あれはちょうど看板の部分―

 親子はどこからがマンションで、どこからが空かについて話していたらしい。まだ暮れなずんでいるとはいえ、だんだんとあたりの景色が闇に溶け始めた時間帯、たしかにあの青いキューブは紺色に変わり、さらに進んで夜空と同調しつつあった。その稜線の部分だけをレリーフのように光らせて、かろうじて自分が「もの」であると主張していたけれど、もしかするとレリーフの内側にあった青色は、太陽とともにどこかへ沈んでいったのかもしれなかった。

 そういえば、陽成院は恋心が積もって淵になってしまった、と歌っていたように覚えている。あの未完成の建物だって、完成したものに成りたかろう。日がなセメントを塗られ、窓枠を嵌められ、壁を塗られてまだ出来あがらなかった、その希いが積もりに積もって、淵のような夜に溶けてゆく、、などと飛躍するぼくの妄想をよそに、親子はひたすらに互いの指で夜の輪郭をなぞり合っているのだった。



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2010年05月19日

無題

 101号系統の市バス、二条城駅前の停留所を下りると、堀川沿いに石畳の舗道が続く。すこしいびつに並べられた石、でこぼことした細道は、堀川通りという大通りの歩道だとは思えないほどに味わいがある。

 道なりの八重桜は花を落とし尽くし、替わって目にも鮮やかな若葉を繁らせている。日傘を差しかけるように風にさわさわと揺れている桜、その麓に今度はつつじの花が真っ盛り。この花の色はマゼンタではなくて、やっぱり紅紫と呼ばなくてはならない。誰に向けて、何を望んでこれほどまでに鮮やかで艶やかな色を纏っているのか、考えるほどに不思議な花。丁寧に刈り込まれた小さく円い木は、まるで精妙な折り紙の毬のように見える。
 紅紫の毬と黄緑の日傘、そしてコンクリート製のベンチ。木陰のコンクリの冷たい感触にも心地よさを覚える季節になっていたたことに気付いたその瞬間、何もかもに触れたくなっている。木に凭れかかり、葉に指を触れ、ベンチに手を置く。樹液が幹を上下する音と、つつじの蜜の味の記憶を手繰り寄せ、ずっとそこにあり続けているベンチを取り巻く空気こそが季節によってその温度を変えてきたことを想う。

 大げさにいえば味覚は食物が舌に触れる感覚、視覚は光が目に触れる感覚、聴覚は空気の震えが耳に触れる感覚、気温さえ空気が全身に触れる感覚、ぼくらはすべて「触れる」ことでしか感じることが出来ないように出来ているらしい、そんなことを考えながらふと桜の向こうの河川敷を見下ろす。コンクリートで丁寧に守られた川岸は意外なほど朗らかな音を立てて流れ、傍らのベンチ―こちらは西日だまりのなか、営業がえりと見受けられる背広の男性が缶コーヒーを飲む。

 あのコーヒーの味、その甘さと冷たさは僕にも分かる気がする。それは、引っ切り無しに車が行き来する広い道路のすぐ隣であることもときに忘れてしまうようにしつらえられた、あらゆる舞台装置がもたらしてくれるかけがえのない味だ。
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2010年04月24日

無題

 ちょっとした撮影があって、朝、嵐電に乗って鹿王院まで行った。普段使っていないから、ではあるけれど、嵐電に乗るとそれだけで嬉しくなる。
 電車を降りてまず向かったのは、緑の多い、こじんまりとした団地。平屋の集会場を囲むようにして、二階建ての長屋、マンション型の集合住宅が何棟か並ぶ。
 何枚かの写真を撮り終えたのち、撮影ディレクタに連れられて、その先の路地を抜けてゆくと、小さな踏切があった。ここで撮ります、と彼女は言い、ぼくらは渡りきらずに真中で立ち止まり、石の上に降りる。遠くを見れば、嵯峨野線のまっすぐな線路がずっと続いて、やがて掠れてゆく。とてもよい眺めだった。


 帰り道は、ふとした気まぐれで天龍寺に立ち寄る。並ぶのが嫌だったので本堂は諦めて、庭だけの拝観料を払って小さな門をくぐる。
 石庭を抜けて、池を眺め、築山を登って、降りて、一回りした。庭中のあちこちにいろんな花。とくに印象に残ったのは、何種類ものつつじ、しゃくなげ、山吹、藤もどき(藤と間違えた)、八重桜、そして蘇芳。色の名に「すおう」(赤黒い色)という呼称を残しているくせに、白い花を付けているものもあって、考えると可笑しかった。

 4月終わりの緑は本当に美しいと思う。木々が放散する色のなかで、いちばん鮮やかだ。
その中を歩くだけで満足してしまって、すっかり忘れていたのだが、あの庭は、嵐山に借景していたのだった。それを見ておけばよかったと、いま思い返して悔んでいる。

 庭を歩くのは楽しい。誰がどんな目的で築いたのか、歩くだけのぼくらは気にしても気にしなくてもいい。たとえば夢想疎石という人がどんな思想を以てここを作ったのか、どんなメッセージをこの池に託したのか、この花はどういう効果を期待して植えられているのか ― 知っていても知らなくても、ただ眺め、巡り、憩うことができる庭。
 そしてこういう庭を、カフェやバーと同じように、みんな幾つかお気に入りとして自分の中にもっておけばいい、と思うのだ。

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2010年04月08日

無題

 三条会商店街のアーケードを行くとだしぬけに現れる公園、その角に桜の木がある。ソメイヨシノ。零れ落ちるように花を付け、花を落とすのもまた彼の仕事だ。

 子供たちが遊ぶその傍らで、行商の漬物売りが露天を出すその上で、何も言わずにはらはらと、桜色の鱗を落としている。ときおり風が吹いてはアーケードの向こうへ、無造作に置かれた自転車のサドルへ、一旦停止のタクシーのボンネットにまで、その花弁は降りかかってゆく。

 咲いたと思えば散る花。かりそめの席を若葉に譲るようにして枝から離れ、アスファルトを一面に染めてゆく花。ときに僕らは、桜の散る様を眺めて美しいと愛でるけれど、その残酷さは僕らのものか、桜自身のものか、あるいは春という装置に備わった基底音そのものが、容赦ない音色をしているのだろうか。

 ふと、若くして殺されてしまった鎌倉時代の将軍の歌を思い出す。中学校で習った、生まれながらに将軍の息子、神童と騒がれ、これを詠んだ後であっけなく死んでしまった人の、歌。

 しづ心なく花の散るらん

 何百年が経ち、天下人から市井の平凡な歌うたいに見る者が替わっても、この感慨だけは相も変わらず花と一緒に風に舞っているのだった。
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2010年03月30日

無題

 見上げると、あの、春のぼやけた空はどこに行ってしまったのか。冴えざえと星が光っている様子はまるで二月に戻ってしまったかのようだった。
 仲立売通の歩道には色つきレンガの石畳が敷かれている。底の薄っぺらい、履きつぶした靴から上がってくる冷たい感触。もう過ぎ去ったと思っていた、真冬には慣れ切っていたはずの寒さに、今日は膝から下をどっぷりと浸しながら歩いた。

 人間は寒の戻りに驚いたり天を呪ったりするだけでよいけれど、気温が低いと身動きすらとれなくなってしまう虫や爬虫類にとって、せっかく地上に出てきたあとの低気温はほんとうに死活問題だろう。 
 花はどうなのだろう。桜が咲くためには冬の寒さが不可欠らしいが、ここ数日の「花冷え」を肝心の花はどんなふうに感じているのだろうか。

 そういえば、実家の茶の間には四月半ばまでこたつが出ていた。田起こしが始まり、水量が増え始めた疏水にそって歩くときにはまだ厚手のコートを羽織っていた気がする。土手に並ぶ桜は歩く日ごとに蕾から三分咲き、五分咲きから一斉に満開、そしてあっけなく散ってしまったその後で田圃いっぱいに水が張られ始める。
 
 去年は京都でも東京でも、山形でも桜を見た。三都市―いや、翌日には盛岡でも見たので四都市―桜前線を追いかけるように移動したのだったが、今年はこの週末、津へゆく。例年通りだと、ちょうど四月上旬が見ごろになるようだ。この寒さで少し遅れたかもしれない。お花見スポットへ出かけてゆくのはただ人ごみに紛れてうんざりするだけなので遠慮しておくけれど、去年の山形、児童公園のそばの並木みたいな場所があると嬉しい。調べてみようかしら。
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2010年02月18日

無題

三日ほど前に、週末のライブにかける意気込みのようなことを書いたのだけど、どうしたわけか投稿できず消えてしまった。おおげさな素振りはやめろと、たしなめられたのだろうか。


京都に戻っても、いまのところ月に一度のペースで東京へ出てきている(ありがたいことに来月も再来月も予定がある)。誘ってくださる方には本当に感謝。そしてすっかり乗りなれた高速バス。本音をいえば鈍行でもなんでも良いので電車のほうが好きなのだが、それでも値段の手ごろさと、眠っている間に目的地まで連れて行ってくれるという面倒のなさ(時には眠れないこともあるけれど!)は重宝する。

そういえば、いつだったか誰かに(タテタカコさんのマネージャー氏だった気がする)「きみは、東京へ夜行バスで歌いにやって来る、というのが一番よい。それがきみにとって最もリアリティある東京での活動の仕方だ」と言われたことを思い出した。あいにくそのアドバイスも忘れて、ぼくは東京へ移ってしまったのだけど。

でもいまは、なんとなくわかる気がする。あの、八条口でバスの到着を待つときの、みんなの感じ。帰るのか、それとも出かけるのか、めいめいがほんのすこしだけ固定された場所から(文字通り)浮き上がって、運ばれてゆく。飛行機や船や新幹線のように一小節を区切る出発というより、なんとなく押し出されて始まってゆく、グラデーション状の、それでいて相変わらず決定的な「行ってきます」や「さよなら」。
(どういうわけか、この感覚は新宿駅西口や新南口のバスターミナルでは味わえない。烏丸口であっても八条口であっても、ぼくには京都でなくてはならない)

明日は夜十時のバス。普段使っているものより若干、早目の出発になる。その後打ち合わせやイベントの手伝いなどでしばらく東京に滞在することになるので、今夜のうちに片づけなきゃいけないことは済ましておきたい。


あ、そうだ、関東のみなさん。ライブ、どうぞ遊びに来てください。
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2010年02月10日

無題

下鴨のカフェyuugueに工藤冬里さんを観に行ってきた。

このひとの音楽がぼくはとても好きで、とにかく目の離せない感じ― 緊張感でもなく、危うさには似ているけれどそれからも少し零れ落ち、ただ「成立する」という瞬間が最高に笑えて、「成立してない!」と気づいたときにもその次くらいに笑える、そんな感じに立ち会うためにCDを買ったりライブを観に行ったりしている。

この日もおそらく打ち合わせなしで顔を合わせたメンバー(ひとりはお店の方だろうか)ふたりと一緒に、でたらめのような、すべて直観に任せたセッション。ほぼ曲名だけを伝えて(ときどきニュアンスのヒントを出す。キーは教えない)、工藤さんは正座しながら薄っぺらい音のエレキギターを弾き語る。ヴォーカルマイクを家庭用のギターアンプに繋いだものだから、声は歪んでしまっている。キーボードとサックスという他メンバーの音量もアンバランスで、呟きに近い歌はしばしば掻き消されてしまう(サックスは既に生音だから、それ以下の音にしようがなかった)。

不思議なことに、この人の音楽は「これで、いい」と思えてしまうのだ。正解も、アウトも、かっこいいも悪いも、ない。そんな音楽は、ほかにあまり知らない。


最後の曲「きみにはいつもの歌かもしれず、僕には最後の歌かもしれず」というフレーズが、とにかく耳に染みた。
例えば、ぼくも明日が最後の歌になるかもしれない、が、それはそれでいいかもしれない、そう思わせてくれる歌だった。
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2010年02月06日

無題

二日続けて「KIKOE」「ライブテープ」を観た。

「KIKOE」は、5年ほどの間に録り溜められた大友良英さんの演奏の映像と、いろんな人のインタビューを、岩井主税監督の視点で再構築し、大友さんがその一端に触れている「何か」を浮かび上がらせようとする映画。時系列もばらばら、ひとりが話すこともいったん断片化されて、監督の随意でさしはさまれてゆく。

「ライブテープ」は、前野健太くんが74分ほぼ歌い続けて、松江監督とクルーがワンカメラの長回しでずうっと追ってゆくというやり方。元旦、吉祥寺の神社から井の頭公園まで、前野健太の歌ひとつひとつがエピソードのように積み重なってゆき、最後はバンドメンバーと共に演奏する。


出来栄えがどうかということは分からない(たぶんどちらも素晴らしい)が、とにかく観てよかったと思った。


かたやポスト・プロダクションの結晶のような作品、かたや編集を一切しない(録音のミックスと字幕くらい?)作品。まったく反対の方角を向いた手法で、ひとりのミュージシャン(こういう括りをすること自体馬鹿げているが)を支点にした二本の映画のどちらからも受けた印象は、テーマとしての音楽家と、映画の方法が呼び合っている、ということ。

大友さんだから「KIKOE」になった。
前野くんだから「ライブテープ」になった。
それは本当に幸福な出会いだ。

みなみ会館の職員さんが、前野君に「ほかのミュージシャンが嫉妬するのでは?」というコメントを向けていた。それはある意味では、正しいと思う。

僕は、松江監督と前野健太の出会い、20人のスタッフの一致団結や創意工夫のすべてが前野くんの歌に集まり、彼の歌がまるでペン先のようになってすばらしい物語を紡いだこと、それが「ライブテープ」という作品になり世に出て、たくさんの人に愛されるようになったこと、そういう神さまの祝福に、ほのかな嫉妬を覚えている。

だけど、これは前野健太の歌がなくては始まらなかった話。

そして彼とまったく同じように、人前でうたを歌う者、演奏する者は、けして自分ひとりで歌い演奏できているわけではないのだ。歌は、音楽は支えられ、聴かれ、誰かにまた伝えられて、波紋のように遠くへ広がってゆく。たとえそれが答えのない疑問符自体でも。「生きていかなきゃ」という独白でも、同じだ。

そのことに気づかせてもらった二夜だった。
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2010年02月02日

ふたつのうた

2012年2月11日(木・祝)木屋町UrBANGUILD
「ふたつのうた」


JOJO広重
ゆーきゃん

OPEN 18:30 / START 19:30
adv.2000 yen with 1drink / door. 2300 yen with 1drink

毎月二組の歌い手が出演。次回出演者を指名し数珠つないでゆく、2010年アバンギルド新企画「ふたつのうた」。ひとりの人間の心象や想いがよりストレートに浮かび上がる「ソロ」の「うた」にスポットをあてて、2010年の1年間をかけて展開してゆきます。
歌好きの方はモチロンのこと、普段はバンドメインで活動している出演者のソロ演奏での意外な一面を発見したり、歴代出演者の顔ぶれを見渡し次回出演者の予想をたててみたり、関西ミュージックシーンの人脈のつながりを垣間みてちょっぴり”通”ぶってみるのもよし、いろんな角度で楽しんでいただければ。と、おもっております。
そして、このイベント「ふたつのうた」の”あがり”にあたる2010年12月を迎えるまでに、いったいどんな人がやってきて、最終回の「13人目」はいったい誰なんだろう?
と。企画した店側としてもドキドキ・ワクワクしております。
そんなアバンギルドの「ふたつのうた」是非足をお運びください。素敵なライブと、おいしいお酒とお食事をご用意して、みなさまのご来場をおまちしております!



これは、この企画の発案者でもある画家・アバンギルドスタッフの足田メロウくんからのことば。京都に戻ってきたばかりの僕を起点に選んでくれた。
前回のハセケンとのときもそうだったけれど、ふたりの人間が歌い継ぐ時間は、ほんとうに掛け替えがない。おなじようにギターとことばをもって描き出すものが、こんなにも違い、こんなにも繋がっているのだと、我ながら驚いている。

今回は(これで僕は卒業だけど)なんとJOJO広重さんと。去年motionにお呼びしたご縁で、京都でも一緒にさせていただけることになった。戻ってくる前にはこの街でこんな組み合わせがあるとは思いもよらなかったけれど、ハセケンとの次は誰に声をかけようかと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが、JOJOさん。異色のカード、でもきっとこの流れはとてもしっくりくるはずだ。大先輩に、うたのバトンを渡す―考えただけでも背筋がしゃんとする気分、がんばらなくては。
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2010年01月29日

無題

土龍くんに、ふたりめの子供。おめでとう。ますますお父さんですね。

シグナレスのデモ録りのために行った池永邸では、二か月になる娘のかんなちゃんがにっこり笑って出迎えてくれた。

LIVE JUNK開演前のHOMEでは、リハに行ったゆかりちゃんと離れたくなくて泣く共鳴。

ここ2年ほどの間で、身のまわりに小さないのちが増えた。
実家に帰れば、兄の子供たちが着々と大きくなっている。上の女の子は今年小学校高学年、下の男の子は幼稚園の年長さん、だったろうか。会うたびに表情が変わっていて、面白い。

時は流れている。皆いつだって"そういう年齢"になる。



彼らが生きてゆく百年、暮らしてゆく世界のことを想おうとしてみる。なにもわからない。明日のことも、自分の数年後のことも、息絶える瞬間のことも想像できないのだから、当然なのかもしれないけれど。

せめて私が生きていたことが後世に繋がるように、ここをずっと伸びてその先に紡がれてゆくはずの糸を私が断ち切ることのないように、生きること。この人たちの人生を満たすだけの歓喜と涙、笑いと怒りとの総量を増やしこそすれ、削ることのないようにすること。それだけは強く思っている。



ここ最近、ことばによってすれ違ったり絡めとられたりすることが多くて、見渡せば、賞賛も誹謗も、罪することも奪うことも、すべてことば、ことば、ことば。ことばは乱発されて、発言者の意図に振り回されて、疲弊し、うんざりているように思う。

僕たちは伝えなくては伝わらないことの多い生き物なので、そのかけがえのない伝書鳩である「ことば」は大事にしなくてはならない。ことばに憎悪され、軽蔑されるようなことは、本来あってはならないのだ。

子供たちが大切にするコミュニケーションの方法を眺め、そのなかに身を置いて、そして振り返ってみると、ことばを酷使せず、依存せず、過信しない対峙のなかから生まれてくるもの(それが何かはうまく言えないけれど)によって、ことばと僕らとの正しい関係が見えてくるように思う。



以上、雑感にもならない漠然とした印象を、ことばによって無理やり落とし込んだ記録、おわり。

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2010年01月18日

無題

1/24、今年最初のLIVE JUNKの、最後の出演者が発表になった。

あらかじめ決められた恋人たちへ、をイベントに誘うのは、これでもう何回目になるだろうか。本当に大好きで(僕の周りの人たちもみんなあら恋が大好きだ)、もっと高みに登ってほしくもあり、宝物のように大事にしておきたくもあり、どうなったってずっと好きで居続けられる自信もある、かけがえのない音楽。出てくれて本当にうれしい。

今回もノンジャンル、バラエティと強度だけは胸を張って語れるラインナップになりました。ぜひ遊びに来てください。


JUNK lab records pesents
"LIVE JUNK"

2010.1.24(sun) @渋谷LUSH & HOME (2店舗同時開催)

OPEN / START 17:30 / 18:00
前売 / 2300- (ドリンク別)
当日 / 2800- (ドリンク別)

LIVE :
●Melt-Banana
●Limited Express (has gone?)
●ゆーきゃん
■あらかじめ決められた恋人達へNEW!! 
●miscorner/c+llooqtortion
●ロレッタセコハン
●SU:
●THE BITE
●imaginion
●ニーハオ!

予約/詳細お問い合わせは、メールください。


そうだ。木曜日、KBSラジオに出ます。お昼の3時ごろから、「音楽わいど ラジオ・ビュー」という番組の「トークフルスイング」というコーナーです。先週はハセケン、彼の紹介で僕、来週はこれまた僕の紹介でSECOND ROYALのレーベルオーナー小山内くんと、数珠つなぎで続いてゆくのです。二曲、自分の曲を流してくださるそうなので、一曲は録りたての音源、一曲はスタジオで生演奏をしようと思っています。

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2010年01月16日

無題

京都に帰ってきて、二回目のライブがある。年末は引っ越してすぐまた出て行ったので、ちゃんと枕を落ち着けてからは、初めて。


「ふたつのうた」

1.22 (fri) 木屋町Urbanguild


長谷川健一
ゆーきゃん


OPEN 18:30 / START 19:30

adv.2000yen with 1drink / door.2300yen with 1drink


この「ふたつのうた」は、アバンギルドが新しく始めた企画で、毎月二組ずつが出演し、一人が押し出し形式で入れ替わりながら歌い継いでゆく、というもの。

今回は僕が残り、来月11日の第二回はJOJO広重さんとご一緒させていただく。ちなみに第三回はJOJOさんとbikkeさん。bikkeさんもすばらしい歌うたいを誘っていらっしゃるらしい。うたが数珠繋ぎになってゆく、その様子を眺めてゆくのはとても楽しいと思うのだけど、その始まりを担うという大役は、僕につとまるだろうか。がんばらなくては。


ちなみに1月、2月、3月と、京都でのライブはすべてアバンギルドで一本だけ。せっかくなので毎月新しい曲を用意していきたいと思っている。そういえばこっちでたっぷりと時間をもらって演奏するのはずいぶんと久しぶりだ。声が嗄れるまで、こころを込めて歌いたい。結局東京では観られなかったハセケンも、それはもう楽しみ!
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2010年01月13日

無題

知らない街を知るには歩くのがいちばんだと、思っていたのだ。ところが昨日おどろいたことには、知っていたはずの街を歩けば、そこに街が私を否認する、そういう風景もまた少なくなかった。夷川通り、二条城界隈、白梅町、なにが違うというわけではないのだけど、たとえば本屋の扉、お寺の甍、なくなった更地、そういう些細なヴァリエーションが、かえってここはもう先に進みました、と断言しているように思える。二年という月日は或るものを別のものに見せるには早すぎるにしても、目に見えない部分の変化が表面に表れるためには充分な時間なのではないだろうか。中途半端な帰還は浦島太郎より大変かもしれないぞ、だがもう一度この場所とわかり合うためにどうすればよいのか、考えてみても結論は同じだ―歩け、歩け、眠り、目覚め、歩き、食い、飲み、話し、そして歌え。外套さえもルーズに羽織り、すこしやんちゃそうな高校生が低いポジションでサドルに腰かけ自転車を漕いでゆく。正月あけの昼下がりなどは仕事も少ないのか、警官たちは三人がかりで若者のバイクを調べている。軒先では電話越しに身ぶり付きで仕事の指示を怒鳴る年かさのスーツの男、郵便局へ書類の発送に行くと思しき女のひとは寒空のなか薄着の制服のまま、買い物がえりの老夫婦はふたりでスーパーの袋を持ち合って、利口そうな犬が小母さんに連れられてうれしそうに散歩する。こういう景色のなかにある「この街」を少しづつ取り戻すこと、いや、あるいは取り戻すことさえなくただ新しく溶けてゆくこと。シアトルスタイルのカフェをやめにして、街のうどん屋さんに入ろうと思った僕の単純さを今日は許せ。
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2009年12月31日

無題

ことし最後の一週間。ライブをして、仕事をして、引っ越しをして、バスに乗って、電車に乗って、くだらない話、大事な話、そしてライブ。どれも100点の演奏とは言えなかったし、サウンドチェックのときとモニターが全然違ったり、びっくりするような野次が飛んで来たり、本番前に緊急の電話が何本も掛かってきたりと、いま思うと「これで締めくくりだなんて言わせないぞ」と誰かに言われているような7日間だった。

振り返るに値しない一年もある。おまえは何をしてきたのだと風が問いかけるような、くだらない季節もある。2009年はとにかくたくさんの出来事があり、振り返るだけでもう一年くらいかかってしまいそうだ。花は咲いていない。実もなってはいない(店はなくなった)。けれど、僕はあちこちで目にしたように思う―寒空に沈黙しながらも静かに、ある方向に向かっていっさんに伸びてゆく枝、夏あんなにも繁った葉を落としたその後で、春の予感を空気の中に探しながら新芽をどこかに隠した葉柄、そしてひたむきに年輪を重ねる幹。人間、場面、作品、今年出会った景色はどれもそんなふうだった、そして僕が求めていたのはまさにその景色だったのだ。

来年がどうなるか、未来がどうなるか、まだ何ひとつ分からない。裏切られた約束、満たされない期待、こんなはずじゃなかったことは山のように現れるだろう。恨みや妬み、焦りや衝動に取り込まれないために、こころを強く持ち続けなくてはならない。誰かに与えられる、大きな神話の嘘を見抜くこと。自分自身の、僕ときみの、僕と太陽の、ものがたりを紡ぎ続けること。根を張り、ひかりを空気に換え、呼吸を歌に変え、ただそこに居ること。右肩上がりの成長ではなくて、死に向かってなお静かに成熟するように、豊かに日々を送ってゆきたいと思っている。

2010年もどうぞよろしくおねがいします。

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2009年12月22日

ライブのこと

東京を離れることを決めてから僕のところに来た年内のライブオファーは、全部受けた。たとえ安売りと言われようと、構うまいと思った。おそらくこれからも頻繁に東京へは出てくるとして、それでもこれまでのように気軽に、ただ呼んでくれた人の気持ちだけを糧にして電車に飛び乗る(サンレインの店番を終えてから、ライブ会場に向かうこともたくさんあった)のは、さすがに難しくなる。いただいたお誘いが、一度出てみたいと思っていた池袋の鈴ん小屋、八丁堀の七針だったというのも大きかった。東京BOREDOMの還元ライブがクリスマスにあり、年内の都内最後の(加えて東京在住最後の)ステージは大好きな月観ルで。まだなにも終わっていないし、日々あたらしい扉は開かれ続けている、そのことを確かめるような−願わくは誰かと確かめ合えるような夜たちでありますように。そして忘年会嫌いの僕が、にもかかわらず飲み過ぎて宿酔になったりしませんように。とくに土曜朝の粗大ゴミの回収を忘れては本当に大変なことになる。
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2009年12月21日

無題

引っ越しの続き、後処理を早めに切り上げてメトロへ。FLUID主催の「僕の京都を壊して」を観に行った。今回は地元のバンドのみで15組が出演という挑戦的な内容で、僕が着いたときはH.M.V.の演奏中。その後FLUID、bed、dOPPO、RATVILLE、LIQUID SCREEN、out at bero、そして colaboyのDJと続いて、結局23時を回っての終演に。久しぶりに聴いたどのアクトも素晴らしく、加えてJACKが確実に自分の"次"を見据えているのが伝わってきて、この場所に居合わせられたことが嬉しくなった(このイベントのことは勿論知っていたけれど、日程は未チェックで、昨日引っ越しを手伝ってくれた呉羽が教えてくれた)。

思えば、2年という歳月は確かに短いけれど、時の流れが様々な状況を押し流すには充分な時間でもある。自分自身に関しても、突きつけられた事実を咀嚼し呑み込めるようになるまで、無意味だと思った出来事にひとつの価値を持たせられるようになるまで、ふとあのときのあの気持ちの理由や意味が分かり始めるまで、ちょうどこのくらいの期間が必要なのかもしれない。時が流れたその後で、もういちど邂逅するものとの、新しくもうんざりするほど懐かしい関係。わたしがこの2年で出会い近づいていったものとの、まだ脆いながらある確信で繋がる愛おしい関係。しがらみ、絡まり、各種の小社会があちこちの居酒屋で今年の憂さを晴らし絆を確かめ合う年の瀬は東京も京都もさほど変わらず、電車のなかで酔い騒ぐ一群の学生たちを横目に、しばらくのあいだ感慨にふけった僕は、またあやうく終電を乗り過ごしそうになってしまったのだった。
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2009年12月20日

無題

サンレインの引っ越し、それに便乗して自分の荷物もすこし、京都へ運ぶ。ここ数日で破れたり伸びたりした服、書き損じたノート、インクの切れたペン、何についてなのかもう分からなくなってしまった説明書、乾電池、切れた弦、あちこちから貰ったり預かったりしながら気がつけば膨大な量になっていた食器など、とにかくずいぶんとものを処分した。CDはケースを捨てて中身のみをスリーブジャケットに入れ替え、本は実家で保管をお願いし、家電は根こそぎルームメイト(先にもう引っ越した)にあげた。残りはめちゃくちゃに重いレコード棚とレコードを田代くんの家で預かってもらい、使い古したベッドや布団、引き出しなどを粗大ゴミ、段ボールを古紙回収に出せば終わり。公共料金の精算と移転申し込みも忘れないようにしなくてはならない。大家さんに鍵を返し、お土産を渡し、寝袋とギターを持って夜行バスに乗って、東京から出てゆくだけ。ひとがどこかからどこかへ移動すること、それはどうしようもなく物理的な問題だと思い知る。くらし、とは、もの。ものは、ひとのあしあと。ひとたび逃げ出した街へもういちど帰る以上、せめて足だけはきれいに拭いておきたい。
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2009年12月17日

無題

12/15 下北沢lete

SET LIST:

1.空に沈む
2.天使のオード
3.明けない夜
4.風
5.Y.S.S.O.
6.太陽(未完成)
7.地図の上の春
8.ファンファーレ#0
9.ばらの花(w/森ゆに)
10.東京の空

11.サイダー
12.sea of love

来てくださったお客さん、共演の森ゆにさん、leteのしんたろうさん、どうもありがとう。素敵な夜でした。


終演後は高円寺に戻り、サンレインの撤収。必死に店から仮倉庫へ在庫を移し変える。カウンターと什器と廃棄の備品だけを残して部屋を出てゆくその最後に押した消灯のスイッチの手触り、音、そしてあの暗闇。

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2009年12月14日

無題

サンレインレコーズが閉店した。
最後の3日間はいろんなお客さんが来てくれて、
ここで得たたくさんの出会いをあらためて実感した。

僕は、これを機に京都へ戻る。
年内に引っ越そうと思っている。

東京で得たもの、知ったことは多い。
ここでは書ききれないけれど、
このあまりに短い二年間には心から感謝している。

あしたのleteは、ひとつ始まりだと思うことにした。
丁寧に、楽しんで、歌いたい。

posted by youcan at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々、時々雨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月10日

無題

みやこ音楽祭については、友人に長い長いメールを書いた後で、もうあまりことばが残っていない。ただ、今年あの場所で感じた「何かが始まっている」という予感は、こんどこそ潰えることなく、関わるすべての人間の手によって守られなくてはならないのだと、強く思っている。

翌日のベアーズ。埋火は素晴らしかった。アウトドアホームレスは最高だった。ひさしぶりにフルメンバーで演奏したシグナレスも気持ちよかった。お客さんに混じってフロアにいる面々も豪華な顔ぶれで、そのことに一番驚いたかもしれない。ともあれ良い夜でした。

昨日は出来たばかりのTHREEを覗きに下北へ。正確には純然たるクラブだったWEDGEを改装してできたライブハウスだ。ラウンジや擦りガラスにWEDGEの感じが残っていて、なんだか嬉しかった。小さいけれど良い空気、面白い場所になりそう。ほっしー、頑張ってください。期待しております。




以下、覚書(忘れないために、メモ等はすぐになくしてしまうので、人目に付く場所に曝しているだけです。本人もまだよく分からないまま書き留めているので、あまり気にしないで下さい)

うたが、この世界だけでなくて、単純な表と裏という区別でもなくて、虚数にも似た、あるのかないのか分からないけれど絶対にあるはずのフィールドにまで突き抜けてゆくためには、どうしたらよいのだろうか。たとえば人間の悲しみを増幅するための道具として使われる、あの告別式のBGMのようなあり方ではなく、ただ純粋にどこか別の場所へ、もしかするとあの人のもとにまで辿り着けるようなうたは可能だろうか。亡くなった友人の声をわたしは心の中で聴くことができる、それと同じようにわたしがいま、もうここにいない人へ向けて-そして届くように-うたうことは可能だろうか。あるいは哀悼というのはひたすらに、生き残ってしまった者が生き残ってゆくための句読点なのだと割り切ってしまうしかないのだろうか。わたしは、あなたのために何を歌えばよいのか。あなたのために歌うことは、はたして本当か。あなたは戻らない。が、戻らないのはわたしもまた同じなのだ。明日は此処が此処で無くなる。いつか此処と其処に差はなく、それでいて何時までも大きく隔てられている。この見えない断絶を渡るための歌があるならば、わたしはそれを探し続けなくてはならない。

posted by youcan at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々、時々雨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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