2020年05月09日

『うたの死なない日』雑記(5)しずく

しずく

わたしが生まれてきたのは


物心ついてからずっと、ひとに身近な動物たちが、どうしてあんなにもひとを信頼することができるのだろう、という不思議を抱えています。自分とは違うこの二本足の生き物に対して、後ろに乗せたり、紐を預けて一緒に散歩したり、好奇心いっぱいで集まってきたり、撫でてほしいとせがんだりするのは、なぜだろうと思い続けています。

そんなふうに選別され、交雑されてきた歴史的な結果なのかもしれませんし、生まれた時から世話をしてくれる人間を安心な生き物と知った学習の成果なのかもしれませんが、ぼくを驚嘆させるもっと根本的な部分 – 彼らが生まれながらに「信じる」という行為の意味を根本的に知っているのはなぜか、という点に関して、まだ納得できる答えに出会っていません。

「しずく」というのは、パートナーの実家の犬の名前です。昨年他界したのですが、たまにしか遊びに来ないぼくのことを「お腹を撫でる係」と認識しており、前脚で「違う、そこじゃなくて、こっち」と指示を出してくる犬でした。果物が大好きで、散歩が大好きで、水が大好きで、小さい犬が苦手な犬でした。人間が食事をするときにはテーブルの下に潜り込んでだれかの足に体をくっつけ、誰かが夜更かししていると自分も灯りの下に出てきてフロアに寝そべり、玄関先に並べたスリッパを発見すると(くわえやすいのか)すぐに何処かへ持ち出しては叱られていました。


「わたしが生まれてきたのは」の後に続く部分について、文字にはしないほうがいいような気がして、ブックレットには載せていません。



座右の銘を聞かれたとき、いつも『星の王子さま』のきつねのことばを挙げるようにしています。実際には、きつねのセリフは至言ばかりなので、そのとき思い浮かんだものを答えます。やはり「かんじんなことは、目に見えないんだよ」が一番多い気がしますが、もしかすると自分の生き方をもっと大きく左右したのは、「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」というひと言かもしれません。サン=テグジュペリは飛行機乗りで、空から、飛行機から、砂漠から、多くのことを学んだひとでした。加えて「移動する」ことを本質とした生業−つまり時間をかけて二つの空間を行き来するという行為、大地から離れた時間の流れに自分を宙吊りにして、間に合うことと間に合わないことの狭間に身を起き続けるという生き方そのものからも、多くの気づきを得たのではないかと思います。

動物たちは、時間泥棒に盗まれるものを持っていません。灰色の男たちに狙われません。そのかわりに彼らは「あなたを信じます」という動作に、とても時間をかけているように思えます。善意について、ことばを介さずに教えてくれる存在がいるということ、自分たちのために時間をむだにしてくれる存在がいるということ、そのありがたみについて最近よく考えます。



このアルバムを作る前から、のんこに詩を読んでもらいたいということをぼんやり思っていたものの、肝心の内容が決まらずに、またも前日に書き上げたものを送るという無茶なスケジュールでの録音でした。テイクは一発OKで、集まったメンバーから思わず拍手が出ていました。


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2020年05月06日

『うたの死なない日』雑記(4)風



放り出された夏の青さ 雲の切れ間で小さく光る
悲しい気分だけを集め 冷えたグラスにそっと注いで
いま風が吹いたら全て忘れよう 誰かを愛したいだろう
木枯らしが吹くまで笑い続けて きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー ここで待ってるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

砂に描いた地図をなぞろう 表通りに飛び出したいんだ
たとえ波にさらわれ たとえすぐに消えたって 喩えようもないたった一つの時間
いま風が吹いたら何も言わずに誰かを愛したいだけ
こっちを向いたら笑ってみせてよ きみにも分かってほしい

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー 何処へも行かないよ

ハロー、ハロー 何処へも行けるよ
ハロー、ハロー ここで待ってるよ


池永正二さん(あらかじめ決められた恋人たちへ)とのユニット、シグナレスのファーストアルバムにも収録したものです。
高校生の友人たちが学校を卒業するにあたって何か贈ろうと思い、再録したバージョンをここに収めました。

モチーフは鎌倉です。アルバム収録曲の中でなんとなくこの曲だけ太平洋岸ぽい、と思っていただけると嬉しい・・・分かりっこないですよね。本当はトレイシー・ソーンの『遠い渚』に収録されている曲たちのようにしたかったのですが、ぼくが歌うととどうしても湿度が上がって(かつ温度が下がって)しまいます。「いま風が吹いたら」と歌いながら、実際に風はずっと吹いています。たぶん、そういうことです。



ヘッセの『シッダールタ』という小説の中で一番好きなのは、知恵と意思にあふれ、生まれながらに悟りに向かって生きていく資格を与えられたような主人公が、自分の息子を育てる場面になって煩悩に追いつかれるという箇所です。振り回され、心配し、伝わらず、挙げ句の果てに逃げられてしまうという展開を、ある種の必然として、突き放した筆致で書いている。冒頭以降ずっとクールなものとして描かれ続けてきた主人公が、急にただの頼りなく情けない親父になるこの部分は、読んでいて楽しいものではありませんが、大サビへ進むためのブリッジであることは間違いありません。ここを通ったおかげでヘッセは、自己にコミットするということはどういうことなのか、愛の美しさとは、醜さとはどういうものであるか、それらを「知る」こととは何であるか、といった問いへの回答に、小説でしか描けないやり方で到達しているように思えるのです。


うたは、音楽であると同時に文学でもあり、芸術であると同時に芸能でもあり、表現であると同時に生活でもあります。それらすべての狭間には「うた」によってしか指し示すことのできない領域というものが確かにあって、この曲はその一部分へだいぶ近づいているのではないか・・・と思っているのですが、まあ、きっとただの自惚れです。


レコーディングは、カラス・クインテットが全員参加しています。アレンジからミックスに到るまで「何も言わずに」完成したのがちょっとした自慢です。rickyが最後のサビのリフレインで、急にビートを変えて叩き出したときに「あ、これはうまく行く」と思いました。
posted by youcan at 08:46| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

『うたの死なない日』雑記(3)ノアの蛙

ノアの蛙

芝生の底に眠る冷たい生き物
朝露に息を潜めて物語の始まりを待つ
夏空は音もなく画面から逃げ去り
青さのかけら 冷たい生き物は雨の夢を見ている 夢を見ている

どこまで行こう

たとえ愛より強い掟がきみを 洗い流したそのあとで
後ろ足を強く蹴ってきみを探すだろう

数え切れぬほどの音符を飲み込み響く方舟
命の重みより美しいメロディは終わりも知らず

指先には海の思い出

やがて知恵の実たちが新しい庭 爆ぜる時は喉を鳴らして
声の枯れる痛みのまま きみを探すだろう
どこまで行こう


雨蛙や殿様蛙は、眺めていても、その鳴き声を聞いていても、飽きません。春の夜、田んぼに鳴り響く彼らの大合唱に目を閉じてみるのが、ここ近年で一番好きな音楽体験かもしれないです。夏の朝、グラウンドの芝生の中で空を見上げているやつがいて、目を細めているような、恋うているようなその表情がとても印象的でした。その後は激しい雷雨になったように記憶しています。


YOUTUBEで誰かのお話をでたらめに再生しながら職場に向かうことが多いのですが、ランダムに入ってくることばの中にハッとさせられることがしばしばあります。あるとき同志社大学の小原克博先生の授業の一場面が流れてきて、ぼんやり聞いていたところ、動物と聖書のお話になりました。『創世記』において描かれる天地創造の順序−たとえば3日目に草と果樹、5日目に魚と鳥、6日目に地の獣と家畜、そして人間という順番で「創造された」という記載−は、実は当時における最先端の科学の知見を反映している。つまり、観察の結果、生物の発生にある種の秩序があるということが「発見された」成果なのだ−これを聞いたとき、ひとりで運転しながら思わず「うわーっ」と叫んでしまいました。それ以来、蛙が5日目に生まれたぼくらの先輩なのか、同じく6日目に生まれたのか、ちょっと気になっています。(彼らの飄々とした面持ちを見ていると、地上に初めて上がったときのことを覚えているんじゃないかという気もしてきます)




ベーシックテイクはTOKEI RECORDSのコンピレーションに参加したときのものをもとにしています(一部差し替えたんだったかな)、ギターはアコースティックギターとエレキギターの二種類を試して、エレキギターのテイクを採用しました。もう一本の歪んだギターは吉岡くん。これが全編を通じて最後にレコーディングされたパートとなりました。こういう荒涼とした感じの表現は、自分にとってあたらしい引き出しを開けたように感じています。続けているといろんなことが変わっていく、面白いものです。





アルチュール・ランボーの「大洪水後」という詩からは、理想を掲げた再出発が、結局は破局の前の焼き直しに終わるという示唆を読み取ることができます(と、随分前に授業で聞きました。ほんとうのところは分かりません。ランボーは難しい…)。

専門家会議の提唱する「新しい生活様式」には、いま生きている生活世界から僕ら自身を引き剥がすという要素も多分に含まれています。そのような「方舟」にいつまでも潜み続けられる人は少ないでしょう。いま、みんなでどうやって生き延びるかを考え続けることは、みんなの(当然、政府や自治体も含めての)問題です。同時に、大洪水の後でどんな世界が立ち現れようとしているのか、目を凝らしておかなくてはならない−とても難しいことですが。多くのものが洗い流された後、大地の上に「ぼくらが(政府や自治体や議員や大企業ではなく)」もう一度どんな社会を望むのか、いまこそ必死で考え、話し、準備をしていかなくてはならないと思います。


『大洪水』の記憶もようやく落着いた頃
一匹の兎が 岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め
蜘蛛の網を透かして 虹の橋にお祈りをあげた
ああ 人目を避けた数々の宝石 ― はや眼ある様々の花
不潔な大道には肉屋の店々がそそりたち 人々は とりどりな版画の面をみるような
遥か高く けじめを附けて重なった海を指して
めいめいの小舟を曳いたのだ (小林秀雄 訳)





posted by youcan at 10:47| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする