一体になることと全体になることの重なりに注意しなくてはならない。unityとtotalismは異なるものだと思いたいけれど、高揚感や安心感という点では共通する何かがあるような気がする。でも、だからこそ、自由を預けることとそれを溶かしてしまうことの決定的な違いについて、はやく、確かな伝え方を見つけ出さなくてはならない。支配者たちはいびきなんて掻いてない。眠りこけているのはわたしたちの方だ。朝起きたらみんな監視塔の下にいて、そればかりか命令書がポケットに入っているー「お互いに"間違わないように"、監視しあいなさい」というものだ。世界を変えることを夢見ていたのは覚えているけれど、どんな世界を夢見ていたのかは忘れてしまっている。走り出した影があり、笛の音が聞こえ、どこへ向かうのか知らないままに、ついて行きたくなっている。全体になることは名前をなくすことで、みんなになることはばらばらにされること、そのときいちばんからっぽで危険なのは、からっぽの世界ではなくて、からっぽのきみやぼくや彼らの、からっぽの衝動なのだ。
2018年10月20日
#9-1
反対する姿、従わない姿はただみっともないのだという論調について考え続けている。非協力的なことは悪で、足を引っ張ることは罪で、みんなで協力して何かを成し遂げることこそが美しいのだという教えについて考え続けている。積み上げていくうちはそれでいいのかもしれない。問題はその電波がどこからか降りてくるときだ。あるいはその電波にぼくらが自動でチューニングを合わせてしまうときだ。協力したのちに何があるのか、従った先はどこに向かうのか、本当はそれこそが問題なのに、思考停止してしまうのはなぜなのか。
一体になることと全体になることの重なりに注意しなくてはならない。unityとtotalismは異なるものだと思いたいけれど、高揚感や安心感という点では共通する何かがあるような気がする。でも、だからこそ、自由を預けることとそれを溶かしてしまうことの決定的な違いについて、はやく、確かな伝え方を見つけ出さなくてはならない。支配者たちはいびきなんて掻いてない。眠りこけているのはわたしたちの方だ。朝起きたらみんな監視塔の下にいて、そればかりか命令書がポケットに入っているー「お互いに"間違わないように"、監視しあいなさい」というものだ。世界を変えることを夢見ていたのは覚えているけれど、どんな世界を夢見ていたのかは忘れてしまっている。走り出した影があり、笛の音が聞こえ、どこへ向かうのか知らないままに、ついて行きたくなっている。全体になることは名前をなくすことで、みんなになることはばらばらにされること、そのときいちばんからっぽで危険なのは、からっぽの世界ではなくて、からっぽのきみやぼくや彼らの、からっぽの衝動なのだ。
一体になることと全体になることの重なりに注意しなくてはならない。unityとtotalismは異なるものだと思いたいけれど、高揚感や安心感という点では共通する何かがあるような気がする。でも、だからこそ、自由を預けることとそれを溶かしてしまうことの決定的な違いについて、はやく、確かな伝え方を見つけ出さなくてはならない。支配者たちはいびきなんて掻いてない。眠りこけているのはわたしたちの方だ。朝起きたらみんな監視塔の下にいて、そればかりか命令書がポケットに入っているー「お互いに"間違わないように"、監視しあいなさい」というものだ。世界を変えることを夢見ていたのは覚えているけれど、どんな世界を夢見ていたのかは忘れてしまっている。走り出した影があり、笛の音が聞こえ、どこへ向かうのか知らないままに、ついて行きたくなっている。全体になることは名前をなくすことで、みんなになることはばらばらにされること、そのときいちばんからっぽで危険なのは、からっぽの世界ではなくて、からっぽのきみやぼくや彼らの、からっぽの衝動なのだ。
2018年09月30日
These Islands Are Our Islands
"Atomize"という単語があることを知った。「原子にする」転じて「細分化しばらばらにする」ついには「爆弾で破壊する」という意味までもった言葉らしい。手塚先生が聞いたらどれほど悲しむだろう。
でも、細分化され、ばらばらにされて、それで終わりというわけではない。ぼくらは原子のままでは生きられないからだ。結びつきを求めて、安定を求めて、全体に紐付けされる自分。網の目の中に固定化された静止画像のような自分。点描画のひと筆のように、共同体の物語とぼくら自身の物語の関係が、いつの間にか逆転してしまう。
世界が、時代が、ぼくらを押し返しながら要求しているのはそういうことだという気がする。目覚めかけた夢の外、ちっぽけな小魚には立ち入れない水域があり、スイミーの真似事をして口をぱくぱくさせる魚群をもういちどただのちっぽけな小魚に戻そうとするのは鯨や鮫だけではなくて、海流や潮位もまたぼくらに厳しい。ぼくらの中にさえ理想と打算とが入り混じり、展望と言い訳がめまぐるしく入れ替わって、あのとき大きな魚を追い払ったような美しい影を作るのはもう格段に難しくなった。
ぼくは思う。追い払った大きな魚それ自体が影だったのではないか。
追い払った大きな魚は、ぼくらの影だったのではないか。
大きな魚にも正義や必要があったとして、それはぼくらの影のなかに、もうすでに含まれていたのではないか。
あきらめてはいけないと思う。鮫や鯨を追い払うことも、流れや潮に立ち向かうことも、そして自分自身の影をよく見つめていることも、あきらめてはいけないと思う。大きなものはいつだってきみを飲み込むし、大きなものをかたちづくる原子は、つながりを探して迷い込み、かえってatomizeされたきみやぼくであったりするわけだけど、ピノキオがあのモンストロのお腹のなかから帰ってこれたように、何が人間をかたちづくっているのかを忘れなければ、きっと大丈夫なのよさ。
ところで、田代君に連れて行ってもらったコザの街並みと、幼稚園児後ろ姿を入れた構図がニールヤングの『渚にて』にそっくりだったあの浜辺の景色はいまでもよく夢に出てくる。たぶん一生忘れないだろう。おおきな台風、みんなが無事だといい。
でも、細分化され、ばらばらにされて、それで終わりというわけではない。ぼくらは原子のままでは生きられないからだ。結びつきを求めて、安定を求めて、全体に紐付けされる自分。網の目の中に固定化された静止画像のような自分。点描画のひと筆のように、共同体の物語とぼくら自身の物語の関係が、いつの間にか逆転してしまう。
世界が、時代が、ぼくらを押し返しながら要求しているのはそういうことだという気がする。目覚めかけた夢の外、ちっぽけな小魚には立ち入れない水域があり、スイミーの真似事をして口をぱくぱくさせる魚群をもういちどただのちっぽけな小魚に戻そうとするのは鯨や鮫だけではなくて、海流や潮位もまたぼくらに厳しい。ぼくらの中にさえ理想と打算とが入り混じり、展望と言い訳がめまぐるしく入れ替わって、あのとき大きな魚を追い払ったような美しい影を作るのはもう格段に難しくなった。
ぼくは思う。追い払った大きな魚それ自体が影だったのではないか。
追い払った大きな魚は、ぼくらの影だったのではないか。
大きな魚にも正義や必要があったとして、それはぼくらの影のなかに、もうすでに含まれていたのではないか。
あきらめてはいけないと思う。鮫や鯨を追い払うことも、流れや潮に立ち向かうことも、そして自分自身の影をよく見つめていることも、あきらめてはいけないと思う。大きなものはいつだってきみを飲み込むし、大きなものをかたちづくる原子は、つながりを探して迷い込み、かえってatomizeされたきみやぼくであったりするわけだけど、ピノキオがあのモンストロのお腹のなかから帰ってこれたように、何が人間をかたちづくっているのかを忘れなければ、きっと大丈夫なのよさ。
ところで、田代君に連れて行ってもらったコザの街並みと、幼稚園児後ろ姿を入れた構図がニールヤングの『渚にて』にそっくりだったあの浜辺の景色はいまでもよく夢に出てくる。たぶん一生忘れないだろう。おおきな台風、みんなが無事だといい。